『一篇の詩に出会った話』感想

コロナ禍に入り、出口が見つからないまま1年が経とうとしています。

私がPippoさんとお話をさせていただいたのは、約1年前。コロナウィルスが日に日に身近に感じられ、人混みに行くときは気をつけてマスクを…と心がけ始めた、慣れない日々に不安ばかりが募っていた時期でした。

自分の大事にしている詩の話、悩みあれこれ、などをお話しできて本当に楽しく、不安な日々の、雲の切れ目に射す光のような、ほっとした時間でした。

 

それから、みなさんのお話、大切な詩はどんなものなのだろうかと、Pippoさんとみなさんの本ができるのをずっと楽しみにしていました。

 

 秋の始まり頃に本になった『一篇の詩に出会った話』をいただきました。

みなさんの大切な一篇の詩は、「詩」に分類されるもの限らず、短歌、歌詞、そしてナレーションまで幅広く、またエピソードもぐっと心に刺さるものもあれば、くすっと笑ってしまうもの、自分では思いつかなかったその詩の受け取られ方にはっとするものあり。最初に「一篇の詩」を読んで、エピソードを読んで、もう一度その詩を読むと最初とはまた違う味わいに思えるのが楽しく、どんどん読み進めました。

 

読み終えてすぐ、Pippoさんには感想をお伝えしたのですが、ブログでもちゃんと残しておきたいと思っていました。少し時間が空いてしまったけれども、短い感想を書きます。

 

西さんの一篇の詩、山崎方代の短歌は、梅干の種から愛に飛ぶダイナミックさがいいなと思いました。そこから、なにかを断定することの難しさや、正しいこと優しいことといった話がされていて、私もそのあたりって難しいなと常々感じていたのでうなずきながら読みました。インターネットで多くの人から見て正しい(ように思える)ことは分かりやすくなってきて、それは正しいと思うけれども、そこからこぼれ落ちることがあったり、その正しさと突き合わせると正しくないように思えるけれども、自分にとっては大事だったりするけどうまく伝えられないもやもやなど…… そんなことを考えるヒントをもらったような気がします。「ほんまにそう思ったんだったら、それでええやん」という言葉から、西さんと方代の短歌から背中をポンとしてもらったような気がします。

 

穂村さんの一篇の詩は、目次を見たときに、サスケのナレーション?と頭の中では肉体派の男性達が過酷なアスレチックに挑戦するSASUKEが浮かんでいましたが、アニメのオープニングナレーションなのでした。すぐにYoutubeでチェックしたら、とてもかっこよく、物語に引き込む力があるナレーションです。その吸引力の秘密を穂村さんがPippoさんとのお話の中で明らかにしています。私だったらなんとなく聞き流してしまうナレーションへ幼少期から着目する感性の鋭さに驚いたのはもちろん、その理由を読むと私もナレーションをより味わい深く聞くことでき、言葉の魅力は他の言葉(説明)によって増すことがあるのだなと改めて思いました。

 

後藤さんの挙げていた西尾勝彦さんの詩は、最初に読んだときは彼のちょっと滑稽で、でも悲しさが伝わってくる、なんだか優しい詩だと思ったのですが、そのあとに語られる自分の中の暴力性についてのお話しに、私もそういうことあるな…と我が身を振り返りました。そういう風に読むとさらに、自分の後ろめたいけど消えない、怒りやさびしさに寄り添ってくれる詩だと思いました。そして、後藤さんとこの詩との関係の話、そこからつながる「お守り」という言葉が、とてもしっくり感じられました。私もお守りの詩をもらったような気がします。実は、この詩がとても好きになったので、その後七月堂へ『歩きながらはじまること』を買いに行きました。

 

加賀谷さんの室生犀星の詩、フレーズが有名すぎて改めてちゃんと読んだことなかったかも。ふるさとを遠くから思いつつ、東京で生きていく決意の詩なのだと思いました。加賀谷さんは自分の人生を考えて、試して、考えて…… ということを、この年にしてしっかり経験されているのがすごいなと思いました。同じ年代なので、自分の経験の少なさと比べて、よりそう思います。そんな加賀谷さんの姿と犀星の詩は、ぴったりと合うように思われます。

私は生まれと育ちが別々の場所で、どっちがふるさとかと言われれば、どっちも、かな。それもいいことなのかも、と思ったり。遠くにありて思わず、コロナ禍前は帰ってばっかりだったけれども……

 

火星の庭の前野さん、仙台に住んでいたときはたまにお店に伺っていました。今も仙台に行ったらほぼ必ず行きます。学生の頃はお金(とカフェで食事をする度胸)がなくてカフェメニューは頼めなかったけれども、ある年の大晦日、友達も帰省してしまいひとりで部屋を掃除して寂しい気分のときに、火星の庭が開いているのを知って伺い、ココアをいただいてほっとしたことをよく覚えています。あと、エメラルドグリーンの曲線が美しい本棚がとっても好きで、いつかあんな本棚がほしいなと憧れています。お店は、本棚を入口から奥へと見て進んでいくのがわくわくするし、食事をしている人たちも楽しそうで、いつも優しい雰囲気を感じていました。

インタビューの中で語られる、前野さんの、家を出て海をも越えるすごい行動力のお話しは、ご家庭のことは我が家も少し似たようなところがあるので一緒にぐつぐつ怒り、おしごとや海外のカフェの様子など面白く読みました。また挙げている金子光晴の詩から、自分のネガティブなところを認めることなどなど語られていて、あの優しいお店は、前野さんのこんな強さがあってこそなのだな…と思いました。

 

出光さんの40年以上にもわたる立原道造おっかけ人生。中学生のときに「中学一年生は誰でも」に出会っていること、その詩の時間を自分の人生の中で同時に感じられるときに出会われたのがいいな、と思いました。中学一年生の、新しい環境に入るピカピカな気持ち、日々起こることを新鮮に感じられることがよく伝わってきます。中学生は新しい環境といえども大人に比べたらまだ自分の行動範囲、意識の届く範囲が狭く、そのぶん日々のあれこれがより大切なことに思えたり、ときに大きく傷ついたりしていたな…… と我が中学生生活を思い出します。出光さんのおっかけ人生で語られるその後の人生、本に関わる仕事・活動をしたり、子育てをしたりしたお話しを読むのは、立原道造の詩の中学一年生の、その後を追うように思われました。人生に立原道造の詩が、ときに近く、ときに遠くから寄り添っているような。

私は図書館通いの中、自転車の荷台に全集を括りつける話がとても好きです。

 

能町さんの挙げている「泉ちゃんと猟坊へ」は、以前読んだ『美しい街』で読んだときにも印象に残る、血縁や家族のあり方に関する自分の考えを揺さぶられる文章でした。また能町さんの巻末エッセイ「明るい部屋にて」も読んでいたので、Pippoさんとのお話しを読むのを楽しみにしていました。私も面白い言葉だと思いつつ調べていなかった「腐縁の飾称」という言葉から、他の尾形亀之助の詩の魅力(お昼っぽい、など)までいろいろお話しされていて、自分でもなんとなくいいなと思っていた亀之助の詩のよさを改めて感じ、詩集を読み返しました。

 

辻村さんの、大槻ケンヂの歌詞から語られるスクールカースト、中学生の時の心の話はとても共感するところが多く、自分の中学・高校時代を思い出して少しひりひりしてしまいました。作家さんにもこういう経験があるのかと(そりゃあるでしょ、と言われてしまいそうですが)、勝手に身近に感じてしまいました。中学生の頃に自分の支えや気づきになってくれた歌・歌詞がその後も支えとなり、ずっと好きで、大切にされているお話しを読み、そんな辻村さんと大槻さんの歌詞の関係がとても素敵だと思いました。

 

右手さんの一篇の詩はボードレール。一読し、ちょっと難しいけれどもなにか訴える力がある詩と思いました。そして、私にとっては、これまで出てきた詩よりも具体的なイメージが掴みにくかったこともあり、この詩が右手さんという方にとってどんな詩なのか、とても気になりました。右手さんは、この時代の中で、人間であること、心・精神を探求することということ、というを述べられていて、お若いながら(というのも失礼ですが)社会のこと、次世代のことまでしっかり考えられていて、素直にすごいなと思いました。思えば私も今の便利な社会のスピードに人間としての私がついて行けないよ〜とおろおろしているので、その中で詩に感動したり、スピードに流されず立ち止まって考えたりすることは、おろおろから少し楽になるヒントになるのかも…と思いました。

 

宮内さんの宮沢賢治の詩。音楽の才能を持つ「おまへ」への熱い思いが感じられる詩です。それは「おまへ」への大きな期待ですが、「おまへ」が順当に才能を発揮できるようになるのは厳しく、もしかしたら生活に削られ音楽から離れてしまうかも…といったところまで、叱咤激励するような、やや強く呼びかけるような調子で語られる詩です。わたしは主に、「人は環境によってスポイルされる」のところに、自分もそうだな、まずいなとぎくっとするのですが、宮内さんはアーティストとしてこの詩を読まれていて、この詩のように才ある人としての実感、また小説を書くこと、これまでの経緯などとともに詩について語られるのが、とても興味深かったです。

詩の「光でできたパイプオルガン」は弾かれたのか、その謎が宮内さん、Pippoさんのお話の中で解かれていき、この詩は賢治が「おまへ」を、本当にその将来まで大切に思ってつくられたのだな、と私まで熱い気持ちになりました。

 

あとがきにあるPippoさんのエピソード。短い文章なのですが、社会人になって自分をふがいなく感じたことは私も数知れず、自分のふがいなく悔しいエピソードを思い出してしまいました。20代前半のPippoさんになにが起こったかは分かりませんが、草むらで唱えた安水稔和さんの詩の一節はそのときのPippoさんを支えてくれたことが、不思議と実感として伝わる、わたしもこの気持ちわかる、と思ってしまうようなお話しでした。

 

今回、ブログを書くために『一篇の詩に出会った話』を再読しましたが、最初に読んだときと同じように、おひとりおひとりのお話しがそれぞれに面白く、一冊のなかで、普段は聞けないようなその方と詩の関わりを読めるのが幸せでした。詩は短い文章だからこそ人の心に強く残り、またそれぞれの関係を築くことができるのかな、それはとてもいいなと思いました。

わたしも自分の大切な詩とともに、またこれからどんな詩と出会えるのか、なんだかとても楽しみです。

美人な人に会ったときに思うこと

「○○ちゃん今日もめっちゃかわいい! 超美人〜」

と、ところかまわず毎日友達に言っていた大学時代から早数年・・・・・・ 美人だと思う人と知り合っても、本人や、周囲に「○○さんは美人だと思う」と告げるのをためらうようになった。言いたい気持ちもありつつ、言ってもいいのかな、言わない方がいいのだよな・・・・・・ と思って言わないことが95%くらいである。でも、誰かそれを言う人がいたら同調して言うこともある。あと、俳優さんやアイドルなどについては、ほぼためらいなく言う。

周りに「美人だな、素敵だな」と思う人がいたときに、誰かに言ってもいいのか、心に秘めていた方がいいのか。いろんなことが気になる。全然答えが出ないまま、気になることを書く。

 

美人だと言われて本人がどう思うか問題

周りから「美人!」と言われたら嬉しそうな気もするけれども、ひとえにそうは言えないだろうな、と思う。友人が、「私を紹介するときに、美人でしょ〜 って言い過ぎる人がいて、こちらが恐縮してしまって嫌だ」と言っていたことがあった。美人は常に容姿を褒められて飽き飽きしているかもしれないし、タイミングや発言者など、言われて嬉しいときと嬉しくないときがあるだろうな・・・・・・

また、たとえば仕事などでメディアに取り上げられたなど、なにか本人の業績や才能で目立ったときに、その内容を無視して容姿のことを、たとえ肯定的な言葉でもとやかく言われたらいやな気持ちになるだろうな、とも思う。

ただ、「美人すぎる農科学者としてネプリーグに出て、本を出して売れたい」という知人もいるし、むしろ美人と言われないとちょっと不満だ、みたいなことを言う美人もいる。

容姿のことは一切言われたくないという人もいるだろうし、褒められるのであれば悪くないという人もいるので、やはり「わたしはあなたを美人だと思う」ということを伝えて良いかは、相手とこちらの性格・信条や関係によるのかなと思う。

 

美人と発言することで、美人ではない側が生まれる問題

さきほど、美人の知人の発言を取り上げたが、「美人の知人」がいるということは、「それ(=美人)以外の知人」もいるということになってしまう。女の子はみんなかわいい! という言葉も、嘘ではないし信じていたいけれども、友人同士で「あの子、美人だよね〜」という話をすると、美人ではない私、わたしたちを感じざるを得ない。たとえば複数人でご飯を食べているときなど、AさんがBさんを美人だと言ったとき、それ以外のCさん、Dさんに美人と言わなければ、美人のBさん、とそれ以外のCさん、Dさんとならないだろうか。それを考えると、大学時代の私は、美人と思った友人に「今日も美人!」と伝えていたけれども、それを見ている周りの友達にはそうではない、と言っているようなものなので、本当に悪いことをしたと思う。また自分がそのように美人でないサイドに自動的に振り分けられることも多々あった。というか、今もある。私は美人でないからそのように扱われても平気だと思いつつ、この問題を考えるにつれて、そのようなときは今も昔も一抹の悲しみを感じていたように思う。美人でないからしかたない、で片付けていいとはあまり思えない。

 

とはいえ美人と言われたら私は嬉しく思うけれども・・・・・・ 問題

これまで美人と思った人に美人と口にするのはちょっと難しいのでは? といった調子で書いてきたけれども、個人的には美人と言われたらとても嬉しいと思う。私の顔は美人ではないのだけれども、お世辞でもなんでも、「美人」と言われると、やっぱりうれしい。かわいいと言われるのも同じくうれしい。なので、一概に容姿を褒めることがなくなってしまうのは、ちょっと寂しいけれども、言われるか言われないかで一喜一憂しなくていいのだから、容姿に対して何も言わないのも平和かも?

あと、いくら容姿を褒められるのは嬉しくても、セクハラっぽい調子で言われると嫌だと思うし、そもそも私が容姿を褒められること自体が珍しいからうれしいのであって、それが日常茶飯事の美人にとってはうっとうしいだけなのでは? とも思う。

そもそも容姿を褒められるとうれしいのはなぜ? も課題。

 

そもそも「美人」という言葉が重すぎない? 

ここまで考えてきて、そもそも「美人」という言葉が重すぎない? と思った。たとえばファッションやメイク、髪型、持ち物などを褒めるのはかなり抵抗感が少ないと思う。それはファッションや持ち物などを通してそれを選んだその人の「センス」という容姿ではない部分を褒めているからかもしれない。一歩進んで、お肌が綺麗、髪がつやつや、スタイルがいい、まゆげの形がかっこいい・・・・・・ などの身体のパーツも抵抗感少なく褒められると私は思う。でも、「美人」となると・・・・・・。顔が周りに与える情報が他パーツに比べて大きすぎるからなのだろうか、うーん。そもそも美人という概念が曖昧かつ意味が強すぎるのだろうか。

 

おわらないおわりに

いろいろ考えて、結局答えが出ないし、そもそも容姿を「褒める」という行為自体が上から目線が入っているのでは、など考えてしまう。でも本当にただただ素敵、綺麗だと思うことがあり、それは止められないと思う。別にテレビでも、ネットでも、居酒屋でも美人が褒められていてもなんとも思わない。ちょっとうらやましいなと思うくらい。

私は、今後もとりあえず、この人、美人! と思った人で、過去に言ったことがある人だったら二人のときに(大丈夫そうなら)言う、言ったことがない人なら言わない、どうしても言いたいときはその人と関わりが無い、信頼の置ける人との会話で言う、などしようかなと思う。あと、やはり「美人」という言葉が重すぎるので、「かわいい」とか「綺麗な感じの人」とかぼかして言おうかなと思う。

ここに書いたことで、この視点が抜けている、これは差別的だ、みたいなところがきっとあると思うので、もしここまで読まれた方で、お気づきの点ありましたら教えてください。

 

 

2018年をふりかえる(後篇)

実家に帰ってきた。ずっと雪が降っている。実家の自分の部屋の掃除をしている。

 

7月

佐原水郷に行ったり、泉鏡花の舞台を見に行ったり、日記を振り返るとかなりエンジョイしていたようだ。訪問したお家から図らずも隅田川の花火が見えたのも7月。

寄居読書会に参加し、久々に夏目漱石『こころ』を読み直した。そういえば、先週くらいに職場の飲み会で、近い年の人が、「私は夏目漱石は『こころ』が傑作で他はそれを超えないと思うんですけど・・・・・・」と話してくれた。

 

coyoteの西瓜糖の日々特集が気になり、『西瓜糖の日々』を読んだ。文章の織りなす圧倒的な美しさや切なさ、透き通るような冷たさ、灯りなどなどに夢中になった。マーガレットだけなんだかかわいそうで、なにか分からない人をハブにする空気を感じないでもなくて、そこが引っかかったのだけど、そこがあったとしても圧倒されるものがあるよね、と人に言われたけれども、どうなのだろう。そうなのかもしれないけれども。

そのあと読んだcoyoteの西瓜糖の日々特集も良かった。

 

梨木香歩『海うそ』が出ていたので読んだ。失われていくものへのまなざしがとてもよいと思った。おじいさんとおばあさんが月夜に海に漕ぎ出でていくのがとても印象的。

小川洋子『密やかな結晶』を読んだ。小川洋子作品はそれなりに読んできて、好きな作品もたくさんある。その中でも、この作品はかなり好きになった。

7月の読書を見返すと、このほかにも山崎まどか『優雅な読書が最高の復習である』を読み、海外モノに興味がわくなど、かなり充実していた! 『Anthropology: 101 True Love Stories』を買ってみたりしちゃった。

 

8月

仕事は忙しかったが、夏期休暇で友人らと尾道しまなみ街道旅行をした。しまなみ街道サイクリングは綺麗な海の近くをたくさん走れて、それはそれは楽しいものだった。友人はわたしより激務だからか、昼間から酒を飲むぞ! と言っていたので、一緒にたくさんお酒を飲んだ。8年ぶり? くらいに海水浴もできたし、手持ち花火もした。自転車と尾道の坂で足がぱんぱんになった。尾道にある林芙美子の住んでいた家がとても小さくて驚いた。帰りに一人で寄った倉敷も大正時代から続いている銭湯に入ったり、蟲文庫さんに行ったり楽しんだ。

 

8月は乃南アサ『水曜日の凱歌』が面白かった。まさに、少女大河物語! どんどん読み進めてしまった。

 

9月

入社してから一番仕事が忙しかった・・・・・・ 記念日の食事のデザートで、シュワシュワするムースを食べて新感覚で美味しかった。小沼丹『お下げ髪の詩人』がなかなかよかった記憶。月末には一山越えたので、仙台の祖母宅に行った。温泉のバイキングでは祖母がわたしよりたくさん蟹を食べていた。蟹酢おいしい。

仙台は、仙台駅の北辰というお寿司屋さんがとても美味しいです。(いつも並んでいます)

 

10月

一山越えたのになぜか忙しく、ちょっと気持ちが参った月だった。

友達の結婚式で静岡に行った。帰りに寄った熱海で入った田園という喫茶店には店内に鯉が泳ぐ池があり、鯉を眺めながらプリン、カフェオレを楽しめた。

豊穣の海チャレンジを始めて、「春の雪」は難なく読めたが、毎度のごとく「奔馬」で止まってしまっている12月末日。

友人のすすめやツイッターで話題に出ていた本をよく読んだ。

くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』は5月に一緒に盛岡に行った友人にすすめられて読んだ。ご飯がおいしそうだったし、料理もおもしろそうに書いてあった。サービスエリアのソフトクリームの話が印象に残っているし、

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』もよかった。自分がクジラだったら、手が短くて相手と抱き合えないけれども、クジラだったら人間って手が長くて面白いなと思うのかなと思った(そういう本ではないと思うけれども)。長いこと海なし県民なので、海や港町の話などはなんとなく惹かれてしまう。詩的な作品だった。

矢川澄子『兎とよばれた女』もやっと読み終わる。かぐや姫のノートのところ、雨宮まみさんの映画『かぐや姫』評を思い出した。

もうこの女の人は止められないんだな、止めてはいけないんだな、という浮き世離れした遠さが印象に残った。構造がちょっと・・・・・・? これでいいのか? とも思った。けれどもそういうことをいう小説ではないのだろうな、とも思った。私は〜ともと思ってばっかりだと思った。

10月はpippoさんのポエトリーカフェに参加した。会場の山小屋風の喫茶店がおしゃれだった。たぬきケーキもかわいい。モモンガさんに北村薫『空飛ぶ馬』を貸していただく。

あと、ミュージカルマリーアントワネットがとてもよかった。田代万里生さんのフェルセン伯爵が誠実さ、優秀さ、優しさ、爽やかさ等々を持ち合わせていてかなり素敵だった。

近松秋江『黒髪 他二篇』は、「黒髪」だけで終わった方が女心と自分の思いが朝靄のなかでぼんやり掴みがたいものになっている感じで好きだな・・・・・・ と思ってしまった。

中本速さんの詩集を読む会に参加した。あまりいい感想を言えず申し訳なく悔しい思いもあったが、みんなでひとつの作品を読んで話し合うのはとてもとても楽しかった。

あと、たぶんこの時期にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカにいる、きみ』の表題作を読み、感涙してしまった。私は、頑張ればどうにかなる、なんてことは必ずではないことは分かっているのだけれども、なにかとうまくいかないときは頑張りが足りなかったからかな、と思ってしまう節があるのだけれども、この作品では人間関係における、そのどうしようもなさがするりと書かれていて、そのするりに胸を打たれてしまった。

あと、アマゾンビデオで観たグッド・ガールズ!というドラマが面白かった。

 

11月

一難去ってまた一難。ぶっちゃけタフではないので、ひーひー言っていた。来年はタフになりたいし、今年よりはタフになれるだろうと思う。

こががっこさん主催で山梨県立文学館で行われていた草野心平展に行った。みんなで芝生に座り朗読をしたり楽しい時間だった。

多和田葉子『穴あきエフの初恋祭り』を読んだ。表題作の、時間の進み方が自分のとらえ方によっていかようにでもなる・なってしまう感じが面白かった。祭りの風景や細部の描写、ふとした一行一行がうつくしい一篇だった。

古谷田奈月『リリース』はかなりの衝撃作で、しっかり感想を書けるくらい考えなきゃと思っている間に年末になってしまった。仕事でもそれ以外でも、ジェンダーのことなど日々考える機会が多いのだけれども、どういう風に考えたら公正なのかな、公正・平等ってなんだ? と自分の考え方の根幹を揺らがせられた作品だった。暗いところで相手の目に光が映って、そこが目だと分かる、というようなことが書いてあり、そこが個人的にとても好きだ。

 

12月

仕事がやっと穏やかになった。10月に借りた『空飛ぶ馬』がとても面白くて、続編もどんどん買う。横浜の駒井哲朗展を観た。絵を見ていると時間が止まったりゆっくり流れたりするような吸引力があった。付き合っている人とその後合流して、横浜をぶらりした。クリスマスシーズンの横浜はおしゃれで素敵でシティを感じた・・・・・・

また、伊東に旅行して、ハトヤホテルに泊まった。温泉卓球にうち興じた。クレーンゲームですみっこぐらしを取ることができた! そのあと風邪を引いてしまい、しばらく普通のティッシュで対応したので、鼻の下が真っ赤になった。

多和田葉子『地球にちりばめられて』がとてもとても面白かった。パンスカのときの言葉の感じがなんとも言えず好きだ。「横に並ぶ人」という言葉が印象に残っている。

 

弟の真似をして始めた1年の振り返りだけれども、結構時間がかかってしまった。

覚えている・いたいこと、面白かった本など振り返るのは楽しかった。

 

今年のベスト作品を選ぶなら・・・・・・

多和田葉子『容疑者の夜行列車』

古谷田奈月『リリース』

近松秋江「黒髪」

梨木香歩『海うそ』

小川洋子『密やかな結晶』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「アメリカにいる、きみ」

小沼丹『小さな手袋』

サリンジャーフラニーとズーイ

リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』

堀江敏幸『その姿の消し方』

 

今年は久々の仕事復帰で、初めてのことも多くあたふたすることが多かったけれども、来年はきっともっとうまくやれるはず! と思っています。たぶん。

思えばいろいろ反省点はありますが、今年はなかなかよい年だったかも。

来年も元気に過ごしたい。

2018年をふりかえる(前篇)

弟は毎年年末になると、facebookに割と丁寧な一年振り返りの投稿をする。

面白そうなので、私もやってみる。どんなこと、どんな本が印象に残っているか。

読書メーターを誰にもフォローされず、フォローせず、つけている。一応最後まで読み終わった本だけ登録している。どの時期にどんな本を読んだか分かる。絵日記に月ごと1ページにつけていたときのほうが良かった気がするけれども、読書メーターのほうを続けている。年末の振り替えに便利かも。

 

1月

年末から修論をしていた。この時期は食べることしか楽しみがなかったので、体重のことは考えないで、好きなだけ食べて論文を書いていい! としていた。

1月10日あたりに修論を出して、次の日は近くの街をぶらぶらした。銭湯に入ったら、色々な魚の絵が描いてあるお風呂だった。

読書メーターによると、2018年最初に読み終わった本は小沼丹の『懐中時計』。付き合っている人の本棚から借りてきた。初めての小沼丹。付き合っている人は、「懐中時計」しか読んでいないけれどもよかったよ〜、と言っていた。収録作でたくさんの人がふと亡くなることが多くて、死が避けられず身近にあること、それを感傷的になりすぎずに淡々と書いているその温度がより切なくしんみりして、でも読み手も感傷的になりすぎず読むことができて、とても好きな本になった。

 

2月

またひとつ年をとる。日記によると、誕生日には銀座の銭湯に行ったそうだ。タイルがきれいだったのを覚えている。付き合っている人と誕生日が一緒なので、向こうの仕事終わりにタルトを一緒に食べた。あと、ずいぶん前に喧嘩したっきりだった友人から連絡が来て、わぁ、とうれしびっくりした。

集中講義があったり、口頭試験があったり、修論を出してもいろいろあったが、母とウィーンとブダペストへ旅行した。かつてものすごく英語にコンプレックスがあったのだけれども、えいや! っと、昨年にイギリスへ短期留学したことで、旅行くらいの英語ならたぶん平気くらいの自信がついたので、いままでの旅行とは違っていろいろなことができて楽しかった。ウィーンからブダペストまではまだ辺りが真っ暗な早朝の電車で行った。夜行列車扱いの電車だったからか、通路と座席がガラスで仕切られていた。6人用のブロックに乗り合わせたハンガリー人女性と思われる人が、車掌の切符チェックにひっかかり、お金を支払わされて泣いていた。たぶんずるをしたのではなくて、手続きが不十分で二重支払いになってしまったんだろうな、という雰囲気で、その隣に座る、知り合いではなくただ乗り合わせただけという感じの女性が慰めていた。私はたぶん言語の聞き分けや習得などがあまり得意でなくて、車掌や女性たちが話していた言語は初めて聞く言語に思えた。

行き帰りの飛行機では、「やさしい本泥棒」、「グレート・ギャツビー」の映画を観た。レオナルド・ディカプリオさんが、「私がギャツビーさ」というところがとても豪華でかっこよくてすごすぎて笑った。フィンランド経由だったから、凍っている海などが飛行機の窓から見えた。

2月はやっと『ノルウェイの森』を読み通せた。飛行機で読んだような気もする。大学生のときに観た映画が結構好きだったけれども、何度も途中で止まってしまっていた。上巻がとても面白かったのだけれども、下巻が失速した感じがあった。好みの問題だと思う。

 

3月

仕事に戻った。2年間くらい離れていたので不安だった。

大学院の修了式があった。正直大学院にはあまり馴染めなかったな、と思うし、同級生たちともそれぞれ忙しく、毎日顔を合わせていただけだったけれども、ふともう会わない人もいるのだなと思うと、あとでほんのり寂しくなる。中学、高校の卒業式のときもそうだったけれども、だいたいそういうことは終わってからふと気がつく。

3月は『フラニーとズーイ』を読んだ。美形で頭の良い二人と私は全然共通するところがないけれども(そもそも登場人物と私に共通点があるかどうかなんてなにも関係ないしどうでもいいのだけれども)、かみ合わない兄妹の会話の中に、高校生のときや大学生になったばかりのころの、むき出しでひりひりした気持ちをちょっと思い出してしまった。『ナイン・ストーリーズ』も友達に教えてもらって、途中まで読んだ。「コネティカットのひょこひょこおじさん」はウォルトがどういう人か、エロイーズにとってどんな人だったかが活き活きと伝わってくるところ、「小舟のほとりで」はブーブーのユーモアで息子を元気づけるところ、家族と生きていく強さみたいなものが感じられて、好きだと思った。

 

4月

上司が替わった。緊張の四月。でもそんなに仕事は忙しくなかった。

シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。寂しさに寄り添っていた良い作品だと思った。その前に観た「グレーテスト・ショーマン」はとても面白かったけれども、”変わり者”の人たちを描いているけれども、なんか距離を感じる・・・・・・という思いがぬぐえなかったのだけれども、「シェイプ・オブ・ウォーター」はひとりで暮らして夜に清掃員として働くなんとも言えない寂しさ、疎外感、そこに生まれる鮮やかな気持ちなどが自然に伝わってきて良かった。この2作を比較するのがそもそもおかしいのだけれども、何と比べなくても「シェイプ・オブ・ウォーター」はいい映画だった。近くの映画館でやっていたのに見逃して、遠くの映画館に観に行ったのも思い出。

4月は小沼丹『小さい手袋』を読んだ。表題作「小さい手袋」を電車で読んだとき、なんだかすごいものを読んだなぁという衝撃があった。なんとない顔をしているすれ違う人の顔の裏に、その人の人生が隠れていて、ふとめくれてはもとに戻るような、そのさりげなさがかえって印象に残る、ような。

初めての獅子文六『断髪女中』を読んだ。尾崎翠が晩年読んでいたという獅子文六

最初は面白い! 面白い! と読んだけれども、途中から少し飽きたような、でも面白かったと思う。熱海にある貫一・お宮の前日譚が印象に残っている。

 

5月

仙台に行き、友人と林明子展や大学の植物園に行った。在学中一度行ったきりの植物園は、鈴のような花の付いた木、ふわふわした綿毛の木、蔓に絡まれて落ちるに落ちられない枝など面白いものがたくさんあった。友人が「最近女子卓球選手に似ていると言われる」と言っていて、本当に髪型からなにまでよく似ていて笑ってしまった。

また、盛岡では秋田県在住の友人と落ち合い、散策した。古本市・古本屋で、駒井哲朗の版画が装丁に使われている三好達治の随筆集や装丁がかなりかわいい森田たまの『ヨーロッパ随筆』を買った。盛岡で食べた冷麺・じゃじゃ麺はかなり美味しかったし、光源社の可否館はおしゃれだったし、友人と歩いた川沿いは少し風が肌寒かったけれどもほっとする景色だった。

仙台から盛岡へのバスで小沼丹『黒いハンカチ』を読んだ。友人推薦の本。正直、私は『懐中時計』、『小さい手袋』の方が好みではあるけれども、インドうぐいす女史というあだ名がなんだか好きになってしまった。続編があったら本当に読みたい・・・・・・と思わせる本だった。

あと、女性が落下する話について、うすうす思っていたけれども私はやはり本を読んで、そこに出てくる建物をある程度はっきりイメージすることが全然できないらしく、よく分からない・・・・・・となってしまって、ちょっと凹んだ。

下旬には、友人と葉山に行き、天気が良く海がきれいで、泳ぐ魚を見て心が和らいだ。おいしいものをたくさん食べ、のんびり話した。

武田百合子『ことばの食卓』を読んだ。「牛乳」が好き。図書館で借りたら、ハードカバーのもので、エメラルドグリーンが鮮やかだった。ハードカバー版がほしかったが、なかなか見つからず、先日文庫版を買った。

 

6月

職場でたけのこが生えたので、あく抜きなどして食べていた。大妻女子大で梶井基次郎の直筆原稿や遺品を見られて嬉しかった。夜な夜なW杯を観て、上司と盛り上がった。めずらしく体調を崩して早退したのも6月。土日は9月からの展示に向けて、いろいろな博物館を回ったりもしていた。

多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を読んだ。これが今年一番くらいのヒット。

陸続きにたくさんの国が並んでいるヨーロッパでは、国境を越える列車はどこの国に属するのか分からない不思議な存在で、自分は確かに列車に乗って存在してるのだけれども、今、私はどこにいるの? と思えてしまうような限られた時間乗っていて移動している不確かさもあり、その列車の持つ非日常・特異なところが惜しみなく楽しめる小説で、本当に面白かった。

ヨーロッパの列車は全然知っているなんて言えないのだけれども、留学中初めて薄暗い早朝に一人でロンドンへ向かう列車に乗ったときの不安と小さな達成感、母と2月に乗った国境を越える列車のことを思い出した。そうしたら、高校生のころ、小一時間乗っていた電車のことや、仙台から東京方面へ向かう新幹線のことなどさまざまなことも思い出した。わいわい電車に乗るのも楽しいけれども、知らない地で電車に乗るときの楽しさと心細さ、慣れた場所でも一人で電車に乗ると色々考えてしまうこと、そんなことが結構好きで、だから電車も結構好きなのだと思った。

多和田葉子『百年の散歩』もとても面白く、同僚のドイツに詳しい人に色々ドイツのことを聞いた。読んでいる間、もしかして〜〜なのかも? と思ったことが、最後に書いてあって、書かないまま終わるかな? と思っていたのに! と驚いた。

6月は久々に太宰治の「女生徒」を読んで、最後の台詞が全然共感できない、むしろ嫌悪感を覚えてしまう女子高生(女子大生?)だったな、ということを思い出した。

 

後篇(7〜12月)があるかもしれない。

はじめてのまーもぐらふい

今年から会社の健康診断に婦人系の診断が入ったので、初めて乳がん検診を受けることにした。

先日、26歳になった。

 

22歳のときの上司に、

乳がん検診は今から自分でも受けたほうがいいのでしょうか?」

と聞いたら、

「特に気になることがなければまだ毎年は受けなくて良いと思うけれども、40過ぎたら毎年受けたほうがいい」

と言われたことがあった。

 

23歳のときの上司には、後輩と一緒に、

「胸が小さくてもマーモグラフィはできるんですか・・・?」

と聞いたら

「申し訳ないが、それは知らない」

と言われたことがあった。

 

乳がん検診は、触診とマーモグラフィだった。

触診はぐりぐりされるのかと思ったら、ぱたぱたぱた・・・という想像よりソフトタッチで終わった、ような気がした。

内科検診の先生が診断してくれた。

 

マーモグラフィは、40代半ばくらいに見える女性の技師さんが担当だった。

「マーモグラフィ受けたことある? ないよね、若いもんね~」

「今日初めてなんです」

「そうかそうか、痛いけど我慢してね」

やっぱ痛いのか。

「これからわたしが痛いことをするんだけど、頑張って我慢してね」

やっぱ痛いのか。

「胸には乳腺というものが立体的に詰まっています。そのままレントゲンを取ると乳腺の影になってしこりが隠れてしまうから、わたしが手で乳腺を広げます。そしてそのまま機械で挟みます。痛いよ~」

めっちゃ痛そう。

「まず、機械にすきまなくくっついてね、はい! 肩の力抜いて!」

肩の力抜いて! は本日の健康診断でずっと言われていて、これは本日5回目くらい。

技師さんの話を聞く限り、マーモグラフィは痛そうで腰が引ける。

「下が気になるけれども前向いて! はい! 腰が引けてる! はいまっすぐ!」

 

「それじゃあ痛いことします!」

 

技師さんの手で乳腺が開かれてる? と思ったら機械にばちーんと挟まれるわが右胸。

ぎょへ・・・・・・息止まる・・・・・・

「このままだと左胸が写りたがって出てくるから手で抑えてね!」

手が冷えてる! 寒い!

「・・・胸の中で一番前に出ているのは乳首だから乳首をきちんと押さえて~」

ご、ごめんなさい・・・

「はい、じゃあレントゲン取るから息とめてね!」

 

え、さっきから息止めてるからくるし・・・ 

 

 

「はい、次反対で~す! 痛かったね、つぎも痛いけど頑張ろうね!」

 

・・・・・・

 

「はい! 終わりで~す。痛かったね、頑張ったね~」

 

反対もレントゲンを取って終わった。

除いたレントゲン画像はしろっぽくぼんやりぽちょんとした胸の画像で、結果がどうかは良く分からなかった。

技師さんは痛い、痛いと言っていたけれども、正直ほとんど痛くなくて、もしかして乳腺が無いのでは・・・? と思ったけれども、そんなことはないだろう、と思って仕事に戻った。

夏の旅行 その1

年末の修論でつらいときに夏の楽しい旅を思い返して耐えていたので、その旅行のことを書く(長くなっちゃったので、分けて書く)。

 

夏は大学時代の友達と、東北ドライブ旅行をした。

もともと、青森県三沢市で行われる寺山修司の市中劇を観に行くのが目的だったのだが、秋田県在住の友達が車を出してくれるというので、寄り道していくことになった。

本当は3人で行きたかったが、うち1人は仕事のため来られず、二人旅となった。

 

8月5日

彩の国S県在住の私は、朝早い新幹線で東北に向かった。

良く覚えていないが、東北夏祭りが重なる時期で朝の便では指定席が取れず、たちのりで仙台まで行き乗り換えをしたが、それでも座れなかった。

仙台は大学時代を過ごした街なので、見慣れた景色にひとりわくわくする。

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秋田県田沢湖駅に向かう。途中、新幹線は在来線の線路を通る。初めてではないけれども、やっぱり驚く。

 

田沢湖駅に着くと、大学生の頃よりややふっくらした友達が軽自動車で待っていた。

車に乗ると、早々六角形の瓶のはちみつをお土産にくれた。このあたりではちょっと有名らしい。関東に遊びに来てもいつも秋田土産をくれるまめな友達である。

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田沢湖駅を出発した軽自動車は、坂道を苦しそうに走る。お姉さんのお下がりというオッティは、坂道のときにはエンジンを切ってアクセルを踏まないといけない。夏の日差しに山の緑が鮮やかだった。

 

私が、

「最近かっこいいお兄さんと、田んぼはいいよねという話をして、お兄さんは夏に稲が緑にさわさわなっているときが好きと言っていて、私もいいと思うけれども、本当は春の田植えの前の田んぼに水を張って空が映っているときが、短いけれども一番好きだわ」

と言うと、友達は

「俺も実はそのときの田んぼが一番好きだわ」

と言って盛り上がった。友達は大学卒業後は仕事の傍ら毎年実家で田植えをしている。

 

当初の予定では、まっすぐ尾花沢鉱山に行くはずだったが、時間がありそうなので、日本3大がっかりスポットとして名高い田沢湖も観て行く。

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この像の手前はすでに浅瀬で、魚がたくさんいるのが見えた。田沢湖は遊覧船も出ていて楽しそうだった。

今回は長いドライブの旅になることがわかっていたので、お互い好きな曲を入れたCDを持ってきて旅の記念に交換することになった。

なんと、友達のくれたCDはジャケットが手書きだった・・・・・・!

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三沢は三沢市、ては寺山修司、10-02 43は、田園に死す、らしい! 絵がうまい!

選曲は、SHISHAMOの「僕に彼女ができたんだ」のしばらくあとに奇妙礼次郎の「君が誰かの彼女になりくさっても」が入っている少し病んだCDだった(狙ったらしい)。

ちなみに私は、SHISHAMOのこの歌は好きだが、他の恋愛うまくいかないソングは、かなり身につまされて正気で聞いていられない。友達のCDでは、きのこ帝国の「パラノイドパレード」がよかった。

途中休憩をしながら尾去沢鉱山跡に向かう。助手席でソフトクリームを食べるという長年の夢が叶う。ソフトクリームは溶けるし外は暑いので早く食べ終わってしまい、夢だった時間があっという間に終わり、あらまあと思う。わたしの持参したCDをかければキリンジの「風を撃て」が流れて、一緒に歌う。

 

尾花沢に向かうまではずっと山で、八幡平を通った。

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「ずっと昔の夏に、親戚で八幡平泊まったことがあるわ、八幡平リゾートホテルってとこだったような」

と言うと、友達は

「俺は近いけれども初めて通ったわ」

と言った。熊注意の看板を何度も通り過ぎながら、友達の住んでいる地域で、夫婦で山菜採りに山へ入ったら奥さんとはぐれ、奥さんを探していたら熊に喰われていたところを旦那さんが見つけたという事件があったことを聞いた。

 

そんなこんなで尾去沢鉱山についた。尾去沢鉱山は空いていて、鉱山の中はひんやりしていた。尾去沢鉱山に以前に来たことがある友達は、私に中は寒いぞとしきりに言っていたくせに、自分は半袖で寒い寒いと言っていた。

 

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中はダンジョンのようで楽しかった。昔ロクヨンバンジョーとカーズーイの対戦ゲームで、トンネルの中で出くわした敵に卵をぶつけるゲームがあったのだけれども、そのトンネルに少し似ていた。トンネルの後半は、鉱山で働く人や隠れキリシタンの人形があった。

尾去沢を出て、十和田湖へ向かう。坂で苦しそうなオッティを応援しながら山道を縫って向かう。

十和田湖はかなり大きかった。田沢湖も大きかったけれども、さらにさらに大きい。

十和田湖まわりを少し散策して、観光ボート乗り場へ向かった。

この観光ボート、ただのゆったり水辺を楽しむボートではないのである。

最高速度50knot(よくわからない)の超速アドベンチャーボートなのだ!!!

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かなりイケイケの陽気なお兄さんが運転と案内


ものすごい風圧を受けた前髪が吹き飛ぶなかで、壮大な自然に驚く・・・・・・ けれども、本当に風圧が強すぎる!

十和田湖は水が冷たく、流れがあまりないらしく、沈んだ木などが腐らずに澄んだ水の底にそのままの姿を残しているらしい。自然保護のためもう人が立ち入れない島には、昔に人が立ち入った鉄の柵のあとが残っていた。

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キリストのように見える像は、米兵が赴任前に縁起を担いで見に来るそうだ(三沢には米軍基地がある)。

十和田湖にはキリスト教伝説があり、また近くにはキリストのお祭りも行われる戸来村がある。十和田湖一帯にいるときは夏なのになんとなく背中がスースーした、ような気がした。

 

十和田湖を出て、八戸に向かう。

今夜の宿は、1泊5000円の新むつ旅館。かつて遊郭だった旅館だ。

友達とは、写真の階段を、それぞれ私は階段を右に上った一番奥の部屋、友達は左に上った一番奥の部屋であった。実は構造上は隣同士なのだけれども、厚い壁で隔てられていて、互いの部屋に行くにはこの中央の渡り廊下を通らないといけない一番遠い部屋であった。

ちなみに、わたしの泊まった部屋は鍵がなくて、少し驚いたけれども、隣の部屋はファミリーで、なんかまあいっか、となった。おそらくどの部屋も鍵はないのでは? 

hac.cside.com

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女将さんによると、遊女はこの陰茎を模した木の細工を廊下に転がし、客がつくことを願ったらしい

夕飯は屋台村で食べる予定だったが、旅館の女将さんから、今日は三社大祭だと聞き、ご飯前に街に出かけた。今年はユネスコに登録されてお祭りが盛り上がっているらしい。

夕方だったので、かなり派手な山車たちは街をまわり終えたのか、市役所前にたくさん集まっていた。

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夕飯は屋台村で海の幸などを味わう。イカめしが本当に美味しいかった! あまりの美味しさに一人で食べ過ぎて友達に驚かれる。八戸のバナナサイダーや日本酒を飲み、すっかりできあがった。

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二件目に行きラーメンとせんべい汁を食べ、来られなかった友達に電話して、店を出てふらふらしながら、行きはバスに乗った道を宿まで歩いて帰る。

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新むつ旅館(夜)

風呂がひとつなので、友達と入れ替わりにお風呂に入って、自分の部屋に戻って布団にゴロンと横になった。エアコンのない部屋だったが、その日の夜は特に暑くなく、問題なかった。天井を見上げながら、この旅館がかつて遊郭だったことを思い出す。恨めしい気持ちでこの天井を眺めた女の人、たくさんいたのかな。幽霊は怖くなかったけれども、なんとなく気が重くなって寝付けなくなる。帰ってきたのも遅かったけれども、眠れずにもっと夜中にお手洗いに行ったら、友達の部屋の電気が点いていた。あ、友達も眠れないんだな、と思って、なんだか安心してその後はちょっと眠れた。

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12月と1月に読んだ本と修論のことなど

12月は主に修論と闘っていて、1月も提出してからほっとしたけれど口頭試験があったり、なんだりでバタバタしていた。まわりの人に気を取られやすいので、提出前は家にこもって自分のペースで進められたのは良かった。家にこもりながら、お風呂に入るときは好きな本を読もう、ということで、赤江瀑の小説や三好達治の随筆を読んでいた。

三好達治の随筆はとても気に入っていたのだけれども、お風呂から上がるときに脱衣所以外の場所に置いてしまったらしく、プチ行方不明に…… 早く見つかるといい。

 

12月に読んだ本

彩世まる『骨を彩る』

 文庫本の表紙の銀杏が印象的な一冊で、私が読んだときも銀杏が散り始めている時期で良かった。主人公の異なる短編で、しかし全体ではつながっている、という読みやすく面白い、よくある構成なのだけれども、それぞれ人のひやりとするようなところを書いていて、印象的だった。『あのひとは蜘蛛を潰せない』も好きだった。

 

よしもとばなな『アナザー・ワールド 王国その4』

 王国4部作の最後の作品。なんと4冊目にして主人公が変わるのだ。次世代、という感じで。また、いろいろ変わったことが起こるのだけれども、そのなかで、よしもとばななは、世の中で大きな問題になっていることについて書くときも、肩肘張らず、さらっとそのままいつも通りに書くので、そこがよいな、と思った。

 

1月に読んだ本

小沼丹『懐中時計』

 小沼丹、ずっと「こぬま」と思っていたら、「おぬま」だった。おぬまたん、響きがかわいいな。小沼丹はずっと気になっていたけれども、今回初めて読んで、とてもいいと思った。恋人に借りた本で返却してしまったので、正しいタイトルが思い出せないけれども、山奥の寺に住む叔母の話など印象的。ちょっと幻想的な話も、淡々とした教授の寺なんとかさんの話、どれも好きだった。執筆時期によるのか、周りの人が亡くなった話などが多くて、しかしそれも惜しみつつ少しドライな感じがして、老成すると別れにも慣れてこんな心理状態になるのか? と思った。たぶん、小説だからというのもあろうかと思う。 

川村湊編『現代アイヌ文学作品選』

 年末にアイヌの子守歌(60のゆりかご)を聞いて、アイヌに興味を持って読んでみた。アイヌのことをあまり知らなくて、神話世界などが書かれているのかなと思ったら、差別への抵抗が主な主題の作品も多く、驚いてしまった。差別されていたとは聞いていたけれども、思っていたより差別が激しかったようで、目をそらしてはいけない、と思って読んだ。アイヌについて興味があるので、差別などの苦しい歴史についても向き合って読んでいかなくては、と思った。

 知里幸恵の日記は、身に迫るものがあって、引き込まれて読んだ。少女の等身大の情熱や優しさがまっすぐ伝わってきた。精神が潔癖な感じ。鳩沢佐美夫の小説は、小説の味わいというか、私が読んできた日本近代小説にかなり似ていて、アイヌのことだけでなく、小説として面白く読んだ。

 

トルーマン・カポーティ 村上春樹訳『ティファニーで朝食を

 1年以上前に、前半を読んだけれども、後半の短編を2つ読めていなかった。

 玉川重機の漫画『草子ガイドブック』では「ダイアモンドのギター」が取り上げられていたな、と思いながら読んだ。「クリスマスの思い出」は、なんだか幸せで切ないクリスマスが描かれていて、自分の価値観を振り返ってしまったような。

 

 修論が終わったのに、あんまり本を読めていなくて残念。

 途中の本もたくさんある。

 もう少し終わったら、いろいろ読みたい。

 

 修論は、まず提出することから無理! と思っていたけれども、執筆中、これは無理! と思うことが頑張るとできるということが3回くらいあって、大変だったけれどもそのことは少し良かったような気がする。

 眠いのでここまで。