一週間読んだ短歌(11.2~11.8)

11月2日 青葉闇 暗喩のためにふりかえりもう泣きながら咲かなくていい / 井上法子

 

 青葉闇は夏の季語らしい。夏の日差しは強く、そのぶん影が濃いのかな。歌意はとらえきれないのだけど、呼びかけている対象は、泣きながら咲いているよう。咲くという言葉はもともと笑うからきているそうで、そのことを考えると、泣くと咲くがわりと反対の言葉であることがわかる。暗喩のため、なにかを表出させないように泣きながら笑うという難しいことを無理にしていたのだろうか。
 青葉闇をつくるくらい太陽が眩しい中で、もうなにも隠して示さなくてよくなったのか。これまで無理して疲れ切った対象が、これまで気を張っていたことから急に解放されて呆然として、気が緩んだら、泣くのをやめて、へなへなと本当に笑うのだろうか。

 

11月3日 うつくしくくずれていった角砂糖つぎの話題がすこしこわいわ / 干場しおり


 昔、角砂糖を指でつまみ角を紅茶につけたまま止まっている人がいた。なにしているの? と聞いたら、紅茶を染み込ませた角砂糖をカップに落とすと、底についた途端に美しく崩れることがあるから挑戦しているとのこと。
 角砂糖の様子をじっと見ている主体は伏し目がちなのだろう。それだけでも不安な感じが伝わってくる。うつくしく、角砂糖、こわいわ、という、少女漫画のようなロマンチックな言葉が全体的に統一感があり、耽美な中に不安さがあるところが好き。

 

11月4日 日々は泡 記憶はなつかしい炉にくべる薪 愛はたくさんの火 / 井上法子


 1日空けて井上法子さんの歌を登場させてしまった。
 日々は泡、毎日の現実は実感がないく脆いものなのかな。ボリス・ヴィアンの「日々の泡(うたかたの日々)」も連想する。丸いたくさんのシャボンがきれいだなと見ていた途端にぱちぱち弾けていくイメージ。
 そんな日々から離れたものとしての記憶があって、「なつかしい炉」にくべるのは、思い出になりつつある記憶なのか。記憶は薪となり、愛の火になるから、愛とは日々の記憶がなつかしい思い出になったものなのかな。
 日々が泡で、水っぽいから、その後の薪や火と対立するように思えるけれども、現実に背を向けて過去ばかり見る、という感じはなく、思い出も薪として燃やしてしまうから、うたかたの日々を毎日生きて、記憶を思い出にして、愛を燃やして、生きていくような、おだやかな中に強さのあるやさしい気持ちになる。

 

11月5日 くしゃみというワープを重ねワンピースの花柄減ってあなたと出会う / 雪舟えま


 花柄のワンピースはかわいい。ワンピースは現代日本ではまだ女性の服とされていて、さらに花柄であると、とてもガーリーだったり、フェミニンだったりする印象がある。
 くしゃみをするたび花柄が減っていくとはどういうことなのだろう。くしゃみでワンピースの野の花が散ってしまう? このワープ、今を生きるわたしのなかだけで起こってはいないような気がする。くしゃみをするたびにちがうワンピースを着た、違う私に生まれ変わっているような。何回も生まれ変わって、花柄のワンピースを着るタイプのわたしではないわたしになって、それでもわたしはわたしで、やっとあなたに出会った、というような、あなたに出会うまでの時空がとても遠く感じる。そのぶんあなたに出会えてうれしい。昨年流行った「前前前世」みたいな感じ。

 

11月6日 冬に泣き春に泣き止むその間の彼女の日々は花びらのよう / 堂園昌彦


 どうして彼女は泣いているのか分からないけれども、きっと彼女は辛くて、冬の間ずっと泣いていて、でも春には泣き止むことができた。辛い日々を、映画のワンシーンのように見たら、はなびらのようにうつくしく切なくはかなく見えるのだろうか。泣いている本人からしたら、そんなひらっとふわっとした花びらどころの悲しみじゃないと思ってしまうかもしれないけれども、泣き明かした一つの季節を花びらのよう、と言われたら、泣いていた辛い日々もむなしいだけでなく、力になるわけでもなく、でもなんとなく自分で思うよりも大きく肯定されたような気がするのだな、と思う。映画のように彼女を見ている人たちに、彼女の涙すら花びらに見えてしまうような。
 冬、春、日々、花びら、は行の音がやわらかいイメージ。

 

11月7日 真夜中にとてもしずかに鳩をだす きづいてあげるためにがんばる / 吉岡太朗


 真夜中に静かに鳩をだすって、結構不思議で特異な光景だと思う。鳩をだすというと、手品のイメージが強い。一人で手品の練習をしているのだろうか。おそらく鳩を出している人は、この瞬間は誰かに見られたい、気づかれたいと強くは思っていなさそう。
 きづいてあげるためにがんばる、は結構普遍的な言葉で、読者一人一人のなかに思い当たるシーンがそれぞれありそうな。きづいてあげるためにがんばる、きづいて「あげる」だから、本当はその誰かは気づいてほしいのだと思う。だいたい日常でこっそりやったことは気づかれない。本当は気づかれたいなぁと思ったことが気づかれる可能性は良くて五分五分くらい? そんな誰かのなにかに、きづいてあげるためにがんばる、のは大事にしている他者に積極的に関わっている感じがする。気づいてほしいことだけじゃなくて、真夜中に鳩をだすような、本人だけしか知らないけどほほえましいような、そんなところも気づいてあげたいという、相手への想いを感じる。

 

11月8日 桜桃の対幻想のくれなゐのまばたきさへも責めらるるかな / 水原紫苑


 対幻想って何かなぁと軽い気持ちで調べたら、吉本隆明がつくった概念らしい。生理的な関係を離れた、家族愛や恋愛、友情のプラトニックな部分なのかな……? ウィキペディアしか見てないけれども。
 共同幻想は最低3人いないと起こらないらしくて、対幻想は2人でも起こりうるらしい。この歌の対幻想は、桜と桃の二つなのだろうか。それとも、「桜桃」でさくらんぼがふたつくっついているイメージかな。さくらんぼの方が、くれなゐ色に近いように思う。対幻想の対、つい、のイメージにも近いし。桜桃の対幻想のくれなゐの、のが続いてリズムがいい。さくらんぼの二つの実の間の対幻想、なんらかの親密な精神的な関係?は、まばたきのようなささやかなやりとりでさえ責められてしまうほどいけないものなのだろうか、禁忌のような。リズムも良いし、それぞれの語の持つイメージも甘やかなのに、逃れ難い厳しさがある。
 与謝野晶子
 椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
が少し連想されたけど、こちらの歌は厳しさから最後ほっとするところに落ち着くのだけど、今日の歌は、どこまでも許されないような厳しさがある。