一週間読んだ短歌(11.9〜11.15)

今週は電車に乗らなかったり書けなかったりした日がありました。

 

11月9日
今つよくおもったことを告げたくて花道走るように枯葉は / 東直子


 木枯らしに吹かれてものすごい勢いで飛ばされていく枯れ葉の映像が思い浮かぶ。風に飛ばされている枯葉というと、寂しく受け身のイメージだけれども、この歌の枯葉はとってもエネルギッシュ。花道というと、舞台やレッドカーペットが思い浮かぶ。人々の視線を集める道で、走り抜けるイメージはあまりない。そんな花道を脇目も振らずに一生懸命走っている枯葉。今おもったことを告げたい! という思いの熱さに突き動かされて、周りが見えていない感じ。その気持ちはなんだか若々しい。未成熟の中のほとばしりというか、若気の至りというか、青春っぽい。
 今という瞬間への強い集中が、枯葉で表現されているとは意外だった。風に高速で飛ばされているように見える枯葉も、じつは風に乗ってだれかに何か告げるために突っ走っているのかも。

 

11月10日
洗濯をするとなにかをなしとげた気分 事実、成し遂げたのだ / 今井心


 歌意はとても取りやすい。家事はどれも日々の繰り返しだけれども、休みの日にまとめて洗濯したときなど、達成感があることを思い出した。結構干す作業は大変だし、洗濯物がはためいていると成果が目に見えるし。また数日後に洗濯するし、生活の一部と思って軽んじてしまいがちの家事の達成感を描いているところが好き。なにかをなしとげた気分とかるい気持ちでいる洗濯をした人と、1字空いて、断定の言い切り、漢字の多さから硬く確かな印象を受ける形でそのなしとげを認めているのが、なんだか面白いし、自分のささやかな達成感を違うテンションで自分で噛みしめているようで、または自分以外の大きな何かに認められたようで嬉しい。

 

11月11日
ひとを抱くこころの寒さ 窓拭けばこの世をあふれ春の雪ふる / 大森静佳
 

 ひとは、恋人や伴侶やそういう大切な人なのだろうか、それとも子どもなど? ひとを抱きしめているときのこころの寒さ、ふとしたときの冷静さだったり、全然違うことを考えることだったり、もっと残酷なことを考えていたりするのかもしれない。おそらく、そのひとを抱くことの幸せとか充実感から心が離れているのは確かだと思う。
 雪が降っているから、窓が結露していたのかな、窓を拭いて外を見えるようにしたら、春の雪が降っていた、わたしのこころの寒さと外の気候の寒さがつながっているように思える。
 気になるのは、この世をあふれ、だ。わたしのこころの寒さと春の雪は、この世のことかな、と思ったのだけれども、この世をあふれ、とはどういうことなのだろう。(わたしの)こころの寒さ→この世をあふれたなにか→春の雪という、この世のものではないなにかがこころの寒さと春の雪を媒介しているのかな。わたしのこころと気候を重ねるだけでもスケールが大きいけれども、この世を離れたなにかの存在を暗示させる、スケールの大きい歌なのかもしれない。
 こころの寒さ、わたしのこころとして読んだけれども、抱いているひとのこころかもしれない。

 能面ポストカードの短歌、全部好きなのでどれについて感想を書くか迷った。

11月14日
同情など欲しからねども雪国に結球の白菜はぎつつさびし / 生方たつゑ


 生方たつゑさんは暖かそうな三重県から雪国沼田に嫁いだ人。東京の女子大にも通っていた人。この方の短歌を詠むときはなんとなく、この経歴を思い出してしまう。わたしが沼田に長く住んでいたからか。

 雪国沼田は関東平野の周縁でなかなか標高も高く、河岸段丘の大地を持つ自然が厳しい寂しい土地。都会から嫁いできたら寂しいだろうなぁと思う。雪国が綺麗に見えるのは、雪国でないところから見たときだけなのでは、と思ってしまう。愛着のあまりない雪国に住むのはさみしい。白菜を剥いでいるのは冬で、沼田の大地はきっと真っ白。真っ白な中で真っ白な白菜を剥ぐ。はいでもはいでも真っ白。雪国の寂しさやつらさは私にしかわからないから、同情なんていらないという気の強さや潔癖性、諸刃の剣のようなギリギリの感情のとがりを感じる。もしかしたら、自分の人生は暖かいところで過ごしたよりも、雪国で過ごした時の方が長くなってしまったあとなのかもしれない。それでもひとに譲らない、でもあふれてきそうなさみしさ。きりっとじわっとしている。
 はぎつつさびし、のところが何回もぎつしりに見えてしまって、白菜は丸くぎっしりしたおそろしいものなのだろうなと勝手に思う。雪の白さ、白菜の白さがまぶしくて、自分の寂しさばかり見つめてしまいそうになっている気がする。