11月に読んだ本

 ブログを動かすと言ったのに全然動かせてない・・・・・・ 

 最近は修論をがんばっています。11月は大学の銀杏がきれいでした。昨年はあまりきれいだということに気がつけなかった。どうしてだろう。

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』

 割と長めかなと思ったら、一気に読めた。チェスをめぐる不思議な話。チェスや将棋はルールーもきちんと覚えてないから普段はやらないのだけれども、分かる人には分かる美しさや調和があるのだろうな、とあこがれた。

 最近ブロックスにはまっていて、ブロックスも相手の出方できれいな盤面になることがあるんだよな〜と思ったりもした。

 

魚住陽子『菜飯屋春秋』

 魚住陽子は『水の出会う場所』がとても好きで、この作品もとても好きになった。中年期以降の女の人たちや男の心変わり、老いがご本人のテーマのひとつなのかな? 今まで読んだ作品の中に多く出てくる。

 私は20代で、作中の女の人たちが直面しているあれこれはまだ先なのかもしれない。けれども、今感じている不安がもっと”オトナ”になったら消えると思っているのは間違いで、その不安がちょっとずつ形を変えたり、新たな不安が生じたり、決して不安がなくなるわけではないのだな、と思ってしまう。それが心苦しいわけではなく、これからこういうことで悩みそう、というのがリアルに伝わってくるし、もちろん中年期になる頃には今より強くなる部分があることも分かるし、なんとなく、年を重ねるのが嫌ではなくなるような小説。

 作中で登場人物たちが俳句をつくっているのも面白い。

 

千早茜『人形たちの白昼夢』

 千早茜は『魚神』が宇野亜喜良の表紙や挿絵に合っていて、とても好きだった。

 現代物も読んだけれども、『魚神』のようなおとぎ話や昔話みたいな作品が読みたいなと思っていたら、この本はまさに幻想的な作品が多くて、楽しく読んだ。

 人形、個人的にはちょっと苦手で、レースの甘さみたいな作品ばかりだったら好みに合わないかも・・・・・・ と、慎重に読み始めたけれども、どの作品も甘さやロマンティック、残酷さと明るさや強さの配分がちょうど良くて、本当にシンプルで上等なリボンみたいな本だった。

 

一週間読んだ短歌(11.9〜11.15)

今週は電車に乗らなかったり書けなかったりした日がありました。

 

11月9日
今つよくおもったことを告げたくて花道走るように枯葉は / 東直子


 木枯らしに吹かれてものすごい勢いで飛ばされていく枯れ葉の映像が思い浮かぶ。風に飛ばされている枯葉というと、寂しく受け身のイメージだけれども、この歌の枯葉はとってもエネルギッシュ。花道というと、舞台やレッドカーペットが思い浮かぶ。人々の視線を集める道で、走り抜けるイメージはあまりない。そんな花道を脇目も振らずに一生懸命走っている枯葉。今おもったことを告げたい! という思いの熱さに突き動かされて、周りが見えていない感じ。その気持ちはなんだか若々しい。未成熟の中のほとばしりというか、若気の至りというか、青春っぽい。
 今という瞬間への強い集中が、枯葉で表現されているとは意外だった。風に高速で飛ばされているように見える枯葉も、じつは風に乗ってだれかに何か告げるために突っ走っているのかも。

 

11月10日
洗濯をするとなにかをなしとげた気分 事実、成し遂げたのだ / 今井心


 歌意はとても取りやすい。家事はどれも日々の繰り返しだけれども、休みの日にまとめて洗濯したときなど、達成感があることを思い出した。結構干す作業は大変だし、洗濯物がはためいていると成果が目に見えるし。また数日後に洗濯するし、生活の一部と思って軽んじてしまいがちの家事の達成感を描いているところが好き。なにかをなしとげた気分とかるい気持ちでいる洗濯をした人と、1字空いて、断定の言い切り、漢字の多さから硬く確かな印象を受ける形でそのなしとげを認めているのが、なんだか面白いし、自分のささやかな達成感を違うテンションで自分で噛みしめているようで、または自分以外の大きな何かに認められたようで嬉しい。

 

11月11日
ひとを抱くこころの寒さ 窓拭けばこの世をあふれ春の雪ふる / 大森静佳
 

 ひとは、恋人や伴侶やそういう大切な人なのだろうか、それとも子どもなど? ひとを抱きしめているときのこころの寒さ、ふとしたときの冷静さだったり、全然違うことを考えることだったり、もっと残酷なことを考えていたりするのかもしれない。おそらく、そのひとを抱くことの幸せとか充実感から心が離れているのは確かだと思う。
 雪が降っているから、窓が結露していたのかな、窓を拭いて外を見えるようにしたら、春の雪が降っていた、わたしのこころの寒さと外の気候の寒さがつながっているように思える。
 気になるのは、この世をあふれ、だ。わたしのこころの寒さと春の雪は、この世のことかな、と思ったのだけれども、この世をあふれ、とはどういうことなのだろう。(わたしの)こころの寒さ→この世をあふれたなにか→春の雪という、この世のものではないなにかがこころの寒さと春の雪を媒介しているのかな。わたしのこころと気候を重ねるだけでもスケールが大きいけれども、この世を離れたなにかの存在を暗示させる、スケールの大きい歌なのかもしれない。
 こころの寒さ、わたしのこころとして読んだけれども、抱いているひとのこころかもしれない。

 能面ポストカードの短歌、全部好きなのでどれについて感想を書くか迷った。

11月14日
同情など欲しからねども雪国に結球の白菜はぎつつさびし / 生方たつゑ


 生方たつゑさんは暖かそうな三重県から雪国沼田に嫁いだ人。東京の女子大にも通っていた人。この方の短歌を詠むときはなんとなく、この経歴を思い出してしまう。わたしが沼田に長く住んでいたからか。

 雪国沼田は関東平野の周縁でなかなか標高も高く、河岸段丘の大地を持つ自然が厳しい寂しい土地。都会から嫁いできたら寂しいだろうなぁと思う。雪国が綺麗に見えるのは、雪国でないところから見たときだけなのでは、と思ってしまう。愛着のあまりない雪国に住むのはさみしい。白菜を剥いでいるのは冬で、沼田の大地はきっと真っ白。真っ白な中で真っ白な白菜を剥ぐ。はいでもはいでも真っ白。雪国の寂しさやつらさは私にしかわからないから、同情なんていらないという気の強さや潔癖性、諸刃の剣のようなギリギリの感情のとがりを感じる。もしかしたら、自分の人生は暖かいところで過ごしたよりも、雪国で過ごした時の方が長くなってしまったあとなのかもしれない。それでもひとに譲らない、でもあふれてきそうなさみしさ。きりっとじわっとしている。
 はぎつつさびし、のところが何回もぎつしりに見えてしまって、白菜は丸くぎっしりしたおそろしいものなのだろうなと勝手に思う。雪の白さ、白菜の白さがまぶしくて、自分の寂しさばかり見つめてしまいそうになっている気がする。

 

 

一週間読んだ短歌(11.2~11.8)

11月2日 青葉闇 暗喩のためにふりかえりもう泣きながら咲かなくていい / 井上法子

 

 青葉闇は夏の季語らしい。夏の日差しは強く、そのぶん影が濃いのかな。歌意はとらえきれないのだけど、呼びかけている対象は、泣きながら咲いているよう。咲くという言葉はもともと笑うからきているそうで、そのことを考えると、泣くと咲くがわりと反対の言葉であることがわかる。暗喩のため、なにかを表出させないように泣きながら笑うという難しいことを無理にしていたのだろうか。
 青葉闇をつくるくらい太陽が眩しい中で、もうなにも隠して示さなくてよくなったのか。これまで無理して疲れ切った対象が、これまで気を張っていたことから急に解放されて呆然として、気が緩んだら、泣くのをやめて、へなへなと本当に笑うのだろうか。

 

11月3日 うつくしくくずれていった角砂糖つぎの話題がすこしこわいわ / 干場しおり


 昔、角砂糖を指でつまみ角を紅茶につけたまま止まっている人がいた。なにしているの? と聞いたら、紅茶を染み込ませた角砂糖をカップに落とすと、底についた途端に美しく崩れることがあるから挑戦しているとのこと。
 角砂糖の様子をじっと見ている主体は伏し目がちなのだろう。それだけでも不安な感じが伝わってくる。うつくしく、角砂糖、こわいわ、という、少女漫画のようなロマンチックな言葉が全体的に統一感があり、耽美な中に不安さがあるところが好き。

 

11月4日 日々は泡 記憶はなつかしい炉にくべる薪 愛はたくさんの火 / 井上法子


 1日空けて井上法子さんの歌を登場させてしまった。
 日々は泡、毎日の現実は実感がないく脆いものなのかな。ボリス・ヴィアンの「日々の泡(うたかたの日々)」も連想する。丸いたくさんのシャボンがきれいだなと見ていた途端にぱちぱち弾けていくイメージ。
 そんな日々から離れたものとしての記憶があって、「なつかしい炉」にくべるのは、思い出になりつつある記憶なのか。記憶は薪となり、愛の火になるから、愛とは日々の記憶がなつかしい思い出になったものなのかな。
 日々が泡で、水っぽいから、その後の薪や火と対立するように思えるけれども、現実に背を向けて過去ばかり見る、という感じはなく、思い出も薪として燃やしてしまうから、うたかたの日々を毎日生きて、記憶を思い出にして、愛を燃やして、生きていくような、おだやかな中に強さのあるやさしい気持ちになる。

 

11月5日 くしゃみというワープを重ねワンピースの花柄減ってあなたと出会う / 雪舟えま


 花柄のワンピースはかわいい。ワンピースは現代日本ではまだ女性の服とされていて、さらに花柄であると、とてもガーリーだったり、フェミニンだったりする印象がある。
 くしゃみをするたび花柄が減っていくとはどういうことなのだろう。くしゃみでワンピースの野の花が散ってしまう? このワープ、今を生きるわたしのなかだけで起こってはいないような気がする。くしゃみをするたびにちがうワンピースを着た、違う私に生まれ変わっているような。何回も生まれ変わって、花柄のワンピースを着るタイプのわたしではないわたしになって、それでもわたしはわたしで、やっとあなたに出会った、というような、あなたに出会うまでの時空がとても遠く感じる。そのぶんあなたに出会えてうれしい。昨年流行った「前前前世」みたいな感じ。

 

11月6日 冬に泣き春に泣き止むその間の彼女の日々は花びらのよう / 堂園昌彦


 どうして彼女は泣いているのか分からないけれども、きっと彼女は辛くて、冬の間ずっと泣いていて、でも春には泣き止むことができた。辛い日々を、映画のワンシーンのように見たら、はなびらのようにうつくしく切なくはかなく見えるのだろうか。泣いている本人からしたら、そんなひらっとふわっとした花びらどころの悲しみじゃないと思ってしまうかもしれないけれども、泣き明かした一つの季節を花びらのよう、と言われたら、泣いていた辛い日々もむなしいだけでなく、力になるわけでもなく、でもなんとなく自分で思うよりも大きく肯定されたような気がするのだな、と思う。映画のように彼女を見ている人たちに、彼女の涙すら花びらに見えてしまうような。
 冬、春、日々、花びら、は行の音がやわらかいイメージ。

 

11月7日 真夜中にとてもしずかに鳩をだす きづいてあげるためにがんばる / 吉岡太朗


 真夜中に静かに鳩をだすって、結構不思議で特異な光景だと思う。鳩をだすというと、手品のイメージが強い。一人で手品の練習をしているのだろうか。おそらく鳩を出している人は、この瞬間は誰かに見られたい、気づかれたいと強くは思っていなさそう。
 きづいてあげるためにがんばる、は結構普遍的な言葉で、読者一人一人のなかに思い当たるシーンがそれぞれありそうな。きづいてあげるためにがんばる、きづいて「あげる」だから、本当はその誰かは気づいてほしいのだと思う。だいたい日常でこっそりやったことは気づかれない。本当は気づかれたいなぁと思ったことが気づかれる可能性は良くて五分五分くらい? そんな誰かのなにかに、きづいてあげるためにがんばる、のは大事にしている他者に積極的に関わっている感じがする。気づいてほしいことだけじゃなくて、真夜中に鳩をだすような、本人だけしか知らないけどほほえましいような、そんなところも気づいてあげたいという、相手への想いを感じる。

 

11月8日 桜桃の対幻想のくれなゐのまばたきさへも責めらるるかな / 水原紫苑


 対幻想って何かなぁと軽い気持ちで調べたら、吉本隆明がつくった概念らしい。生理的な関係を離れた、家族愛や恋愛、友情のプラトニックな部分なのかな……? ウィキペディアしか見てないけれども。
 共同幻想は最低3人いないと起こらないらしくて、対幻想は2人でも起こりうるらしい。この歌の対幻想は、桜と桃の二つなのだろうか。それとも、「桜桃」でさくらんぼがふたつくっついているイメージかな。さくらんぼの方が、くれなゐ色に近いように思う。対幻想の対、つい、のイメージにも近いし。桜桃の対幻想のくれなゐの、のが続いてリズムがいい。さくらんぼの二つの実の間の対幻想、なんらかの親密な精神的な関係?は、まばたきのようなささやかなやりとりでさえ責められてしまうほどいけないものなのだろうか、禁忌のような。リズムも良いし、それぞれの語の持つイメージも甘やかなのに、逃れ難い厳しさがある。
 与謝野晶子
 椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
が少し連想されたけど、こちらの歌は厳しさから最後ほっとするところに落ち着くのだけど、今日の歌は、どこまでも許されないような厳しさがある。

2017年10月に読んだ本。

 ブログをうまく使えていないので、先月読んだ本の簡単な感想を書くことにします。

よしもとばなな『王国〈その3〉ひみつの花園』(新潮文庫

 王国3作目。1,2を面白く読んだので、そのいきおいで読む。山から下りてきた雫石がどんどん成長するのを見守るのが楽しかった。人間の関係のこまかなところは文字にできないんじゃないかと思うけれども、いつもよしもとばなな先生はうまく文章にされていて、しっくりくる感じがある。

東直子『薬屋のタバサ』(新潮文庫

 ご本人にサインをいただいた際に、『とりつくしま』とは全く雰囲気が違うと聞いていたが、本当に違った。じぶんのいる場所がどこかわからない不安定なところで起こるリアルなものごと。また不安になるけれども隠されるなにか。最初の方の聞き間違い? のところが、リアルで言葉っておもしろいと思った。

沼田まほかるユリゴコロ』(双葉文庫

 映画のエキストラに家族と出て、映画館に上映を観に行ったところ、序盤のグロに耐えきれず、母と途中で映画館を出てしまったので、読んだ。エキストラとしてはばっちり映っているのを確認できた!

 ぞくぞくしながらも先の展開が気になり一気読みできた。

小川洋子『シュガータイム』(中公文庫)

 大好き小川洋子。お風呂で読んでいた。主人公と吉田さんの不思議な安らいだ関係が好きだったのだけれども・・・・・・ 全体としては好きな話だった。大学生っぽさ。解説が林真理子で、ふむふむと思った。

よしもとばなな『デッドエンドの思い出』(文春文庫)

 家やお風呂、けだるく公園のベンチで読んだりもした。ここ最近よしもとばなな作品を集中して読んでいたけれども、けっこうこの作品は現実世界で誰もが大変だ・・・・・・ と思うような事件について書いていて、でもそのなかでばなな節が効いているような作品たちで、あらためてよしもとばなないいな、と思った。

池田澄子池田澄子句集』(現代俳句文庫)

 ずっとまえからちみちみ読んでいて、やっと読み終わった。生きるの大好き冬のはじめが春に似て、という俳句に惹かれて読み始めたら、期待を上回ってたくさんのすてきな句に出会えた。初めて句集を読んだ。

『文学ムック たべるのがおそい vol.4』

 vol.1からずっと読んでいる。フランスの翻訳作品の「不思議な死(手元にないのでタイトル後ほど確認)」が印象的。宮内さんのも、とても面白かった。SF苦手意識が薄れてきた。いつも自分では手に取らない作品、作家の作品と出会うことができて、刺激的で面白い文学ムック。

萩尾望都ポーの一族』(1)(2)(3)(小学館文庫)

 初めての萩尾望都。ずっと話が続くのかと思ったら、短編短編がつながりを持っているというつくりだった。全部時系列にばしっと整理はまだできていないけれども。海外の伝説の漫画化のように思えてしまうほど、海外の雰囲気に満ちていた。ぜひとも小池修一郎先生による舞台化を・・・・・・!

 初めて読んだ少女漫画は、りぼんの『空色のメロディ』だったのだけれども、なんとなく初めて少女漫画を読んだときのことをほんのり思い出した。

ポエトリーカフェin都留 山崎方代篇に参加しました。

ぴっぽさんが東京・神保町などで行う気さくな詩の学び場ポエトリーカフェ(

ぴっぽのしっぽ - livedoor Blog(ブログ))にたびたび参加させてもらっています。今回は都留への出張と聞き、気になる土地、都留でのポエカフェに行ってきました。

わたしにとっては初めての都留です。

 

都留には、中央線で大月駅まで行き、富士急線に乗り換えて向かいます。

相模湖駅に向かうあたりから、車窓は緑でいっぱいになってきます。

 

大月駅でみなさんと合流して、谷村駅へ。夏の暑い日でした。

都留では、ポエカフェ常連で都留市在住のCさんが案内をしてくださいました。手作り資料もいただきました。

都留には昭和の街並みが残っていて、撮影などでも使われるそうです。

また、街中に流れる用水路は江戸時代からのものもあるそう。鯉やほかの魚も泳いでいて、きれいでした。

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  • ミュージアム都留

まずは、ミュージアム都留に行きました。

名誉市民第1号の増田誠さんの絵画を観て、都留の歴史紹介コーナーへ。

都留には、縄文時代の遺跡があるそうで、土器や土偶などが展示されていました。

また、江戸時代には松尾芭蕉も滞在したそうです。松尾芭蕉劇場というからくり箱のような面白い展示がありました。

 

都留市は江戸時代に郡内織で、明治以降は甲斐絹で栄えた織物の街だったそうです。

旧暦8月1日に行われる八朔祭では、屋台(引き車のような)が出ます。その屋台に飾られる幕は、下絵が葛飾北斎などの有名絵師によるものです。幕に使われている技術も現在では再現できないほど精密なもので、当時の繁栄がうかがえます。

屋台も幕もミュージアムに展示されていました。すごい迫力! でした。

八朔祭の昔の写真では、かつて行われていた、町ごとに共通の仮装をする「にわか狂言」の様子も写されており、楽しい雰囲気が伝わってきました。

 

特別展では、根付の展示をやっていました。

細工の大変細かいものや、面白いもの、かわいらしいもの、たくさんの根付を観ることができました。

 

ミュージアム都留から街を散策してうどん屋さんに向かいます。

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変わった位置にしめ縄。

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金山神社。階段はあまりの暑さに上らず……

 

うどんは太めで、でも太さが均一でなく、いろいろな食感が楽しめるところがたまらなくおいしいです。少しほうとうに似ているのかな、こしがありました。

薬味のごまの辛みがとても美味しかったです。

 

  • ポエカフェ山崎方代篇

手打ちうどん 石井」から「バンカム、ツル」に移動してポエカフェが始まりました。

ぴっぽさんお手製の、詩人(今回は歌人)の人物紹介の年表、詩歌の資料が配られ、くじを引きました。くじは今回は10首くらいの歌が載っていて、そのなかから2首選んで音読して、感想を述べました。

 

・山崎方代のとてもざっくりした略歴

ぴっぽさんの詳しい資料からざっくり抜粋です。

1914年山梨県生まれ。8人兄弟の末っ子として生まれたが、兄弟が夭折していたので姉2人の長男。名前の由来は「生き放題、死に放題」から。お姉さんたちがお嫁に行き、8歳からは父母と3人暮らし。19歳の時には両親が目を病み、方代は両親を支えながら作歌にいそしんでいた。

23歳で母が亡くなり、父とともに姉の嫁ぎ先横浜に移住する。

24歳、謄写版印刷詩集『万障繰り合わせ』100部発行

27歳で臨時召集され、29歳のとき戦場で右眼失明、左眼視力0.01となる。出征中父が亡くなる。

帰還後は靴職人の家で修行をして靴の修理をしたり、放浪の旅生活をしたりする。その間も盛んに文学活動をしていた。

37歳で姉の嫁ぎ先の歯科医院の歯科技工士として落ち着く。

41歳、第一歌集『方代』自費出版

48歳から吉野秀雄と親しく交流を重ねる。51歳のとき、姉が亡くなり、各方々への住み込み生活(4畳半の小屋など建ててもらっていた)。56歳、故郷に一族の墓を建立。

60歳、第二歌集『右左口』刊行。

65歳、第三歌集『こおろぎ』、66歳、随筆集『青じその花』刊行。

70歳(1985年)、肺がんによる心不全で死去。死後、第四歌集『迦葉』刊行。

 

吉野秀雄さんとは、大変親しくしていたようで、1、2週間に一度、手土産を持って行っていたことや、いつも吉野家を訪ねるのを楽しみに語っていたことなど、ほほえましいエピソードが紹介されました。山梨の方言なのか、「〜じゃ」と話していたそうです。

足繁く訪れても吉野さんを疲れさせるようなことはしなかった、話が面白く気遣いのできる人だったようです。

 

お姉さんの嫁ぎ先を出てからは、いろいろな人のおうちの一画に住んでいたようですが、そういう人が何人も見つかるのは、やっぱり方代さんの人格なのでしょうか。

 

たびたび歌に登場する土瓶は、『青じその花』に写真が載っているのを見せていただきました。捨ててあったのを拾ってきて、それから長い長いつきあいで家族のような愛着をもっていたようです。

 

・あたった短歌

わたしがくじで引き当てたのは、第三歌集『こおろぎ』からの11首。

そのなかから以下の2つの歌を読みました。

 

留守という札を返すと留守であるそしていつでも留守の方代さんなり

 

札を返しっぱなしにしている無精さ、もしくは原稿取り立て対策なのでしょうか、本当は家にいるだろう自分を「方代さん」とさん付けで呼んで笑っているような滑稽さ、おかしみが楽しい歌だなと思いました。

 

親と子の便りがどこかですれ合って山の桜が咲き初めにけり

親子が離れて暮らしていて、手紙を送り合っている、故郷は山なのかな、と思いました。すれ合うのは頻繁に手紙をやりとりしているからで、親子の間の強い愛情が感じられました。

「すれ合って山の桜が咲き初めにけり」の音がきれいだなと。また、「手紙がすれ合う」ことから、山桜の白っぽい薄い花びらを連想しました。

 

方代さんの歌は、まっすぐに届くような歌、身の回りの歌、道化の歌が多いのかなという印象で、たしかにそういう歌も多かったですが、ときに不気味な暗さの出ている歌や父母への歌、反戦の歌などいろいろな歌があり、面白いな、と思って読んでいました。

 

今回もたくさんの方々にお会いし、みなさんそれぞれに意見・感想を聴くことができて楽しかったです。今回はみなさん好きな歌を選んで読まれたので、どの歌を選ぶのかな? というのも面白かったです。

前半の都留ツアーや移動の電車などでも楽しいお話しができ、今年の夏のすてきな思い出ができました。

 

追記:

ポエカフェの会場となった、バンカム、ツルのアイスカフェオレとっても美味しかったです。コーヒーそのものがおいしいのはもちろん、最初から甘いものが出てくるのですが、甘みが何とも言えず美味しい甘みで、ミルク感も強く、今まで飲んだアイスカフェオレのなかで一番美味しかったです。きっとコーヒーが美味しいから甘みもミルクも美味しいんだろうな、と思いました。

尾崎翠生誕120周年記念「尾崎翠と、追憶の美し国へ」2日目

2日目はゆかりの地めぐり&遊覧船で、岩美町の美しい風景を堪能しました。

予報ではお天気が心配されていましたが、当日は快晴で、海がとても綺麗でした。

 

AM8:00 出発!&浦富海岸・荒砂神社

美味しい朝食で、ご飯2杯をぺろりと食べ、出発!

f:id:shino222:20161008214135j:plain普段海から離れた場所に住んでいるので、朝一番から大興奮でした。

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海水の透明度が高い!前日雨が降ったようなので、これでも濁っているそう。もっと澄んでいるときもあるそうです。

 

旧岩井小学校

尾崎翠の父が勤めていた学校。大変モダンなつくりなのですが、修復などあまりされていないようで、少し痛んでいました。

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ぜひ修復などして、後世に残していってほしいです……。

 

西法寺

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尾崎翠生誕の部屋があります。また「無風帯から」のモデルにもなっているそうです。

 

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生誕の部屋にあった尾崎翠肖像画と文机。文机と薔薇がなんとも言えず可愛らしい……! 

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「無風帯から」に鐘つき場が出てきます。こちらがモデル?

 

ゆかむりギャラリー

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岩井温泉の温泉宿の1階にありました。

f:id:shino222:20161008215749j:plainこちらのセーターは尾崎翠が編んだそうです。編み目細かい! とても器用だったのですね。尾崎翠や映画の紹介ボード、尾崎翠関連資料が並んでいました。

f:id:shino222:20161008220213j:plain素敵なしおりも配布していたのでいただきました♪ 

ゆかむりギャラリーの後、平和橋から岩美町から見える山々、川など自然を堪能しました。コスモスがきれいに咲いてました。

 

バスから、尾崎翠の勤務先跡を教えていただき、網代漁港の入り口あたりで下車しました。

こちらは、「花束」で語り手の「私」と子どもたちを乗せたかんこが入り江に出る場面の景色だそうです。

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今は整備されて川幅が広いですが、昔はそんなに広くなかったそうな。

その後、バスで移動し……

 

尾崎翠の通勤路

尾崎翠は西法寺僧堂に下宿して、小学校に通っていたそうです。

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 通勤路のトンネル。トンネルが出来る前は危険な道(崖)を通らねばならず、命を落とした方もいたそうです。

風の通りがよく、魚が干してありました。

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こちらが、現僧堂内にあった旧僧堂の写真。

こちらでは地元の方から、お菓子とお茶をいただき、ひとやすみ。有難うございました! 

尾崎翠の通勤路を実際に歩くことができて、どんな気持ちで毎日通勤していたのだろう、この僧堂で作品を書いていたのだな、など思いを馳せることができました。

網代漁港をあとにして、遊覧船乗り場に向かいます。

 

遊覧船 浦富海岸巡り

 

ツアーの最後は遊覧船に乗りました。

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浦富海岸の島々を巡ります。やっぱり透明度の高い海! ところどころビーチがあり、スタンドアップパドルボート?を楽しんでいる人も見かけました。浜野監督『こほろぎ嬢』の撮影で使用されたビーチも見ることができました。

 

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遊覧船から遠くに鳥取砂丘も見えます。映画『第七官界彷徨』のラストを思い出しました。

 

おまけ

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遊覧船乗り場で、イカが高速回転で干されていました。

 

PM 14:55 鳥取空港

遊覧船を楽しんだ後、お昼にお弁当をいただき、バスで空港まで送っていただきました。一人での空の旅は、今回の旅行が初めてでしたが、帰りとなればもう慣れたもので、追憶ツアーの余韻に浸りつつ空の旅を楽しみました。

空港解散組みは行けなかったのですが、ツアーメンバーはその後、鳥取市内の養源寺(尾崎翠のお墓がある)に行ったそうです。私も行きたかった~! 

 

感想

講演やトーク、映画、交流や美味しい地元の食材、そして尾崎翠ゆかりの地巡りと、充実の内容にわくわく、そしてどんな方が来るのだろうとドキドキしていた追憶ツアーでしたが、想像していたよりもずっっと楽しかったです。

1日目は講演や映画などから刺激を受けて、尾崎翠作品について改めて色々視点からあれこれ考えるきっかけをいただきました。

2日目は、尾崎翠ゆかりの地を辿ることで、尾崎翠はどんな思いでいたのかな、どんな風景を見ていたのだろう、などと尾崎翠自身について思いを馳せていました。

こんなに尾崎翠のことばっかり考えたのは、今回が初めてかもしれません。

 

主催の皆様や地元の皆様はとてもあたたかく迎えてくださって、地元の方々も尾崎翠を愛しているのだな、と思いました。ツアーで一緒だった方々も皆様優しく、色々なお話ができて楽しかったです。

尾崎翠フォーラム(集大成の『尾崎翠を読む』3冊もいただきました!)は昨年15年の歴史に幕を下ろしたそうですが、このような記念イベントに参加できて本当に嬉しかったです。行きたい行きたいと思っていたフォーラム終了のお知らせは、とても悲しかったので……追憶ツアーで岩美町を訪れることが出来てよかったです。

 

実は、『尾崎翠を読む』は事前に購入していたので、いただいた3冊を保存用に、購入した3冊を布教用にしたいと思います! 

岩美町の自然、海の幸に魅せられたので、また旅行してみたいです。

尾崎翠生誕120年記念 「尾崎翠と、追憶の美し国へ」1日目

尾崎翠生誕120周年記念「尾崎翠と、追憶の美し国へ」に参加してきました。

大変充実したイベントだったので、備忘録も兼ねてレポートしたいと思います。

 

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岩見町の海

10月1日 曇り AM11:45 鳥取

午前中に砂丘を見て、すなば珈琲でココアを飲み、前泊したホテルから荷物を貰って鳥取駅に集合。もうすでに数名参加者と思われる方が集まっていました。バスに案内され、お弁当が配られました。お弁当、海の幸がいっぱい。

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PM 1:00 岩美町中央公民館 第一部

町長のご挨拶ののち、

村田喜代子先生の講演『筋骨と花束』

吉行和子さんと浜野佐知監督のトーク

・映画『第七官界彷徨尾崎翠を探して―』上映

 

講演『筋骨と花束』

村田先生の「鍋の中」、どことなく「第七官界彷徨」に似ているところがあり(親戚の子どもたちが親元を離れて暮らす、オルガンを弾く、などなど)、ご飯を作るシーンやタイトル通り鍋の中の世界が大変魅力的なのですが、村田先生も作品を書かれていた当時、尾崎翠に似せまいとしてもどうしても似てしまった、とおっしゃっていました。「ルームメイト」は未読ですが、こちらも「第七官界彷徨」の影響を受けているとのこと、読んでみたいと思います。

 

講演で最も印象に残ったのは、「尾崎翠の小説を読んだときに、花束をもらったような気がした。けれども作品を読んでいるうちに、その花束をくれたその手は、なにか、ただ者ではないものの手だと思った」というようなお言葉(原文ママではありません。書き手の解釈あり)。

これが講演タイトルの『筋骨と花束』につながっていて、官能的なものを作中から排除して、お兄さんに片恋をする、現実の自分がなれない女の子を描いた、イケテル!とみんなが思う「花束」のようなところ(トキメキ要素みたいなもの?)と、戦争の近づく中で、リアリズムを排除しているのにリアリティのある小説を文体でつくる腕力、とくに鳥取に戻ってからの、自分の親戚の子どもたちを育て上げた生活者(後世は現実をやった、とも)としての「筋力」の二つが尾崎翠の魅力、とのことでした。

(このへん、書き手の解釈が大いにあります…)

 

私は尾崎翠の作品は割りと何でも好きですが、改めて「第七官界彷徨」や「歩行」は、現実の理屈から離れた、けれどもリアリティのある作品世界を作っているところが大きな魅力なのだな、と改めて思いました。

「無風帯から」は、光子が泣いたり感情を表に出したりするのを我慢する描写が好きです。

 

吉行さん・浜野監督トーク

吉行さん、浜野監督のトークでは、撮影秘話など聴くことができて、続く映画上映への期待が高まりました。

作中では、尾崎翠が亡くなるところからスタートして、東京で作品を書いていたところまで点々に時間を巻き戻しになっていきますが、最後に鳥取砂丘尾崎翠や松下文子、林芙美子などがはしゃいで歩くシーンは、現代の鳥取尾崎翠を合わせたかった、とのお話が印象に残っています。トークを聴いていて、吉行さん、浜野監督のお二人には強い信頼関係があるのだな、と思いました。

 

映画上映『第七官界彷徨尾崎翠を探して―』

 実は初めての鑑賞。ずっと観たかったのです。

映画は、尾崎翠が亡くなるところから始まり、養老院での日々、おばとして子どもの洋服をつくる日々、戦争中、東京から鳥取に帰るとき…と、時間が点々にどんどん巻き戻っていきます。その時点時点のシーンと交互に「第七官界彷徨」のシーンが入っていく、という構成です。

もともと私は、小説を読むときに、作者をわきに置いて、作品そのものだけを読むようにすることが多いのですが、この映画で尾崎翠はどういう人間であったのか、考えさせられました。作中では、精神のバランスを崩している描写もありましたが、全体として快活で、鳥取に戻った後は特に、日々の生活をたくましく過ごす生活者としての尾崎翠が描かれていました。

事前にyoutubeで観た予告編で、「文学なんて、色々ある人間のひとつ」と言うシーンがあって、どういう文脈で言うのだろう……と、尾崎翠=作家のイメージが強い私としては、正直どきどきしていたのですが、映画で描かれる尾崎翠像にぴったりで、自然な言葉でした。

実際尾崎翠がどんな人だったのかは分からないのだけれども、どこかで「割りとさばさばしていた」というようなことを読んで、また手紙など見るに、私の中では「こほろぎ嬢」の一説、「柳腰の女が却って脂肪に富んだ詩を書いたり、腰の太い女が煙のような詩を書く」というのではないけれども、作品の味わいと本人の気風は違って、文学への強い思いを持ちながら、映画のようにさっぱりした力強い人であったのかな、というイメージになりました。日常会話でちょっと文学的な語彙を使ってきそうなイメージもある笑。

翠役の白石加代子さんが、写真の翠に似ていて、また演技も生命力を感じられて、素敵でした。ぴったり。

 

第七官界彷徨」のシーンは、自分の中のぼんやりあったイメージがくっきりするような、作品にぴったりの映像でした。三五郎や二助の部屋の美術?がとても良かった。作品を読むだけでは台詞もなく、どんな人物かよく分からない町子が、大人しいけどちょっとさばさばした感じの子として描かれていました。

映画、何度も観たいと思って、上映後DVDを購入しました。

 

PM6:00 岩美町立渚交流会館

KEiKO*萬桂さんのパフォーマンスと交流会がありました。

パフォーマンスでは、照明も落とされ幻想的な雰囲気の中、舞書が行われました。

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↑完成した作品

 

交流会では、岩美町の海の幸や梨、とうふちくわ、旅人の宿 NOTEさんより、尾崎翠の「アップルパイの午後」、「第七官界彷徨」の味噌汁を焦がすことから、アップルパイと焦がし味噌のスープをいただきました。どの食事も大変美味しかったです。リレートークを聴き、また参加者の皆様や地元の方々とお話が出来ました。講演をされた村田先生とお話しすることもできました!「鍋の中」のことお話したとき、嬉しくて緊張してしまいました……。

最後はとうふちくわでできた、とうふるーと(とうふ+ふるーと=笛)の演奏とともに、「ふるさと」を歌いました。とうふるーと結構しっかり音が出ていて、驚きました。

 

PM 8:30~

 交流会のあとは、バスで移動してゆかむり温泉に入り、その後かまや旅館で懇親会がありました。

参加者の皆さんは、浜野監督のファンや尾崎翠ファンが多いようでしたが、学生さんや作家さん、映画監督さん、詩人さんなどなど様々な方々が集まっていました。自己紹介ののち、歓談♪ みなさんとお話ができて、とてもとても楽しかったです。浜野監督は大変明るい方で気さくな印象の方でした。

かまや旅館さんのお夜食(といってもまるっと一食分くらいある!)とっても美味しかったです。ここでも海の幸を堪能しました。そんなこんなでふかふかのお布団でツアー1日目を終えました。2日目に続く。