『一篇の詩に出会った話』感想

コロナ禍に入り、出口が見つからないまま1年が経とうとしています。

私がPippoさんとお話をさせていただいたのは、約1年前。コロナウィルスが日に日に身近に感じられ、人混みに行くときは気をつけてマスクを…と心がけ始めた、慣れない日々に不安ばかりが募っていた時期でした。

自分の大事にしている詩の話、悩みあれこれ、などをお話しできて本当に楽しく、不安な日々の、雲の切れ目に射す光のような、ほっとした時間でした。

 

それから、みなさんのお話、大切な詩はどんなものなのだろうかと、Pippoさんとみなさんの本ができるのをずっと楽しみにしていました。

 

 秋の始まり頃に本になった『一篇の詩に出会った話』をいただきました。

みなさんの大切な一篇の詩は、「詩」に分類されるもの限らず、短歌、歌詞、そしてナレーションまで幅広く、またエピソードもぐっと心に刺さるものもあれば、くすっと笑ってしまうもの、自分では思いつかなかったその詩の受け取られ方にはっとするものあり。最初に「一篇の詩」を読んで、エピソードを読んで、もう一度その詩を読むと最初とはまた違う味わいに思えるのが楽しく、どんどん読み進めました。

 

読み終えてすぐ、Pippoさんには感想をお伝えしたのですが、ブログでもちゃんと残しておきたいと思っていました。少し時間が空いてしまったけれども、短い感想を書きます。

 

西さんの一篇の詩、山崎方代の短歌は、梅干の種から愛に飛ぶダイナミックさがいいなと思いました。そこから、なにかを断定することの難しさや、正しいこと優しいことといった話がされていて、私もそのあたりって難しいなと常々感じていたのでうなずきながら読みました。インターネットで多くの人から見て正しい(ように思える)ことは分かりやすくなってきて、それは正しいと思うけれども、そこからこぼれ落ちることがあったり、その正しさと突き合わせると正しくないように思えるけれども、自分にとっては大事だったりするけどうまく伝えられないもやもやなど…… そんなことを考えるヒントをもらったような気がします。「ほんまにそう思ったんだったら、それでええやん」という言葉から、西さんと方代の短歌から背中をポンとしてもらったような気がします。

 

穂村さんの一篇の詩は、目次を見たときに、サスケのナレーション?と頭の中では肉体派の男性達が過酷なアスレチックに挑戦するSASUKEが浮かんでいましたが、アニメのオープニングナレーションなのでした。すぐにYoutubeでチェックしたら、とてもかっこよく、物語に引き込む力があるナレーションです。その吸引力の秘密を穂村さんがPippoさんとのお話の中で明らかにしています。私だったらなんとなく聞き流してしまうナレーションへ幼少期から着目する感性の鋭さに驚いたのはもちろん、その理由を読むと私もナレーションをより味わい深く聞くことでき、言葉の魅力は他の言葉(説明)によって増すことがあるのだなと改めて思いました。

 

後藤さんの挙げていた西尾勝彦さんの詩は、最初に読んだときは彼のちょっと滑稽で、でも悲しさが伝わってくる、なんだか優しい詩だと思ったのですが、そのあとに語られる自分の中の暴力性についてのお話しに、私もそういうことあるな…と我が身を振り返りました。そういう風に読むとさらに、自分の後ろめたいけど消えない、怒りやさびしさに寄り添ってくれる詩だと思いました。そして、後藤さんとこの詩との関係の話、そこからつながる「お守り」という言葉が、とてもしっくり感じられました。私もお守りの詩をもらったような気がします。実は、この詩がとても好きになったので、その後七月堂へ『歩きながらはじまること』を買いに行きました。

 

加賀谷さんの室生犀星の詩、フレーズが有名すぎて改めてちゃんと読んだことなかったかも。ふるさとを遠くから思いつつ、東京で生きていく決意の詩なのだと思いました。加賀谷さんは自分の人生を考えて、試して、考えて…… ということを、この年にしてしっかり経験されているのがすごいなと思いました。同じ年代なので、自分の経験の少なさと比べて、よりそう思います。そんな加賀谷さんの姿と犀星の詩は、ぴったりと合うように思われます。

私は生まれと育ちが別々の場所で、どっちがふるさとかと言われれば、どっちも、かな。それもいいことなのかも、と思ったり。遠くにありて思わず、コロナ禍前は帰ってばっかりだったけれども……

 

火星の庭の前野さん、仙台に住んでいたときはたまにお店に伺っていました。今も仙台に行ったらほぼ必ず行きます。学生の頃はお金(とカフェで食事をする度胸)がなくてカフェメニューは頼めなかったけれども、ある年の大晦日、友達も帰省してしまいひとりで部屋を掃除して寂しい気分のときに、火星の庭が開いているのを知って伺い、ココアをいただいてほっとしたことをよく覚えています。あと、エメラルドグリーンの曲線が美しい本棚がとっても好きで、いつかあんな本棚がほしいなと憧れています。お店は、本棚を入口から奥へと見て進んでいくのがわくわくするし、食事をしている人たちも楽しそうで、いつも優しい雰囲気を感じていました。

インタビューの中で語られる、前野さんの、家を出て海をも越えるすごい行動力のお話しは、ご家庭のことは我が家も少し似たようなところがあるので一緒にぐつぐつ怒り、おしごとや海外のカフェの様子など面白く読みました。また挙げている金子光晴の詩から、自分のネガティブなところを認めることなどなど語られていて、あの優しいお店は、前野さんのこんな強さがあってこそなのだな…と思いました。

 

出光さんの40年以上にもわたる立原道造おっかけ人生。中学生のときに「中学一年生は誰でも」に出会っていること、その詩の時間を自分の人生の中で同時に感じられるときに出会われたのがいいな、と思いました。中学一年生の、新しい環境に入るピカピカな気持ち、日々起こることを新鮮に感じられることがよく伝わってきます。中学生は新しい環境といえども大人に比べたらまだ自分の行動範囲、意識の届く範囲が狭く、そのぶん日々のあれこれがより大切なことに思えたり、ときに大きく傷ついたりしていたな…… と我が中学生生活を思い出します。出光さんのおっかけ人生で語られるその後の人生、本に関わる仕事・活動をしたり、子育てをしたりしたお話しを読むのは、立原道造の詩の中学一年生の、その後を追うように思われました。人生に立原道造の詩が、ときに近く、ときに遠くから寄り添っているような。

私は図書館通いの中、自転車の荷台に全集を括りつける話がとても好きです。

 

能町さんの挙げている「泉ちゃんと猟坊へ」は、以前読んだ『美しい街』で読んだときにも印象に残る、血縁や家族のあり方に関する自分の考えを揺さぶられる文章でした。また能町さんの巻末エッセイ「明るい部屋にて」も読んでいたので、Pippoさんとのお話しを読むのを楽しみにしていました。私も面白い言葉だと思いつつ調べていなかった「腐縁の飾称」という言葉から、他の尾形亀之助の詩の魅力(お昼っぽい、など)までいろいろお話しされていて、自分でもなんとなくいいなと思っていた亀之助の詩のよさを改めて感じ、詩集を読み返しました。

 

辻村さんの、大槻ケンヂの歌詞から語られるスクールカースト、中学生の時の心の話はとても共感するところが多く、自分の中学・高校時代を思い出して少しひりひりしてしまいました。作家さんにもこういう経験があるのかと(そりゃあるでしょ、と言われてしまいそうですが)、勝手に身近に感じてしまいました。中学生の頃に自分の支えや気づきになってくれた歌・歌詞がその後も支えとなり、ずっと好きで、大切にされているお話しを読み、そんな辻村さんと大槻さんの歌詞の関係がとても素敵だと思いました。

 

右手さんの一篇の詩はボードレール。一読し、ちょっと難しいけれどもなにか訴える力がある詩と思いました。そして、私にとっては、これまで出てきた詩よりも具体的なイメージが掴みにくかったこともあり、この詩が右手さんという方にとってどんな詩なのか、とても気になりました。右手さんは、この時代の中で、人間であること、心・精神を探求することということ、というを述べられていて、お若いながら(というのも失礼ですが)社会のこと、次世代のことまでしっかり考えられていて、素直にすごいなと思いました。思えば私も今の便利な社会のスピードに人間としての私がついて行けないよ〜とおろおろしているので、その中で詩に感動したり、スピードに流されず立ち止まって考えたりすることは、おろおろから少し楽になるヒントになるのかも…と思いました。

 

宮内さんの宮沢賢治の詩。音楽の才能を持つ「おまへ」への熱い思いが感じられる詩です。それは「おまへ」への大きな期待ですが、「おまへ」が順当に才能を発揮できるようになるのは厳しく、もしかしたら生活に削られ音楽から離れてしまうかも…といったところまで、叱咤激励するような、やや強く呼びかけるような調子で語られる詩です。わたしは主に、「人は環境によってスポイルされる」のところに、自分もそうだな、まずいなとぎくっとするのですが、宮内さんはアーティストとしてこの詩を読まれていて、この詩のように才ある人としての実感、また小説を書くこと、これまでの経緯などとともに詩について語られるのが、とても興味深かったです。

詩の「光でできたパイプオルガン」は弾かれたのか、その謎が宮内さん、Pippoさんのお話の中で解かれていき、この詩は賢治が「おまへ」を、本当にその将来まで大切に思ってつくられたのだな、と私まで熱い気持ちになりました。

 

あとがきにあるPippoさんのエピソード。短い文章なのですが、社会人になって自分をふがいなく感じたことは私も数知れず、自分のふがいなく悔しいエピソードを思い出してしまいました。20代前半のPippoさんになにが起こったかは分かりませんが、草むらで唱えた安水稔和さんの詩の一節はそのときのPippoさんを支えてくれたことが、不思議と実感として伝わる、わたしもこの気持ちわかる、と思ってしまうようなお話しでした。

 

今回、ブログを書くために『一篇の詩に出会った話』を再読しましたが、最初に読んだときと同じように、おひとりおひとりのお話しがそれぞれに面白く、一冊のなかで、普段は聞けないようなその方と詩の関わりを読めるのが幸せでした。詩は短い文章だからこそ人の心に強く残り、またそれぞれの関係を築くことができるのかな、それはとてもいいなと思いました。

わたしも自分の大切な詩とともに、またこれからどんな詩と出会えるのか、なんだかとても楽しみです。